【第260号】名古屋城と名古屋城下町

冬真っ盛りです。寒い日が続いていますので、くれぐれもご自愛ください。

一昨年から「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺城郭・幕末史―」をお送していますが、今年は名古屋城と名古屋城下町をお送りします。今月は中世尾張に現在の名古屋城下町北部に形成された那古野荘についてお伝えします。

駅伝制

古代律令制の成立とともに駅伝制が導入され、東海道、山陽道などの官道が整備され、駅家が各地に設けられました。

駅家は「えきか」「うまや」と読みます。約四里ごとに設けられました。平安時代の法令集である「延喜式」には四〇二の駅家が設置されていたことや、駅家の細かい規則が記されています。

駅家には、馬や馬具、食料などが備えられ、駅子が常駐。馬は大路の駅には二十疋、中路の駅には十疋、小路の駅には五疋配置されるのが原則であり、川沿いの駅(水駅)には駅船が配置されました。

原則として駅使とその従者のみが駅家の利用を許されました。公私の目的を問わず、位階や勲位を持つ者は例外的に駅家に宿泊することができます。

駅家の運営は駅戸と呼ばれる駅周辺の農家が行い、そのうち富裕で経験豊富な一名が駅長に任ぜられます。

駅長は終身制です。亡くなったり、高齢、病気を理由に駅長を交代する時は、馬などの駅家の備品を完全に引き継ぐことが義務付けられ、欠損している場合は前任の駅長あるいはその家族が弁償しなければなりません。「延喜式」には、天災などの不可抗力によるものは除くなど、細かい規則が定められています。駅長の負担は重いですが、その代わりに在任中の課役(庸・調・雑徭)は免除されます。

余談ですが、襷をつなぐ長距離走を「駅伝」と呼ぶのは、駅(中継所)から駅までを伝えるという古代駅伝制に由来します。

那古野荘

古代駅路では都と太宰府を結ぶ山陽道が一等大路でしたが、中世には鎌倉街道が最重要となりました。尾張国では鎌倉街道が南東から北西方向に斜めに貫いていました。

時代とともに駅制は変容し、駅に代わって宿が登場します。宿場とは街道において駅逓事務を取り扱うため設けられた集落のことです。宿駅とも言います。また、旅籠の集合体である宿場を中心に形成された町を宿場町と呼びます。

中世には各地に荘園が形成され、都と荘園を結ぶ道も生まれます。尾張国の庄内川の東部にも那古野荘、山田荘、富田荘などが誕生しました。

中世尾張国の鎌倉街道の宿は、沓掛、鳴海、熱田、萱津、折戸、黒田とつながります。鎌倉街道の経路は、境川を渡って尾張国に入ると、沓掛を通って鳴海に至り、熱田宿(宮宿)から北上して古渡、そこから西進して露橋、さらに中村を通って庄内川を渡り、萱津、折戸、黒田と北西方向に進みます。

中世尾張国においては、鎌倉街道と那古野荘をつなぐ道、那古野荘と周辺集落をつなぐ道も形成されていきます。つまり、中世那古野の町のもとになる集落や道があったことも、この場所に那古野城が築城された背景です。城ができ、那古野の町には市も立つようになります。

那古野城

那古野城は戦国時代に今川氏親が築城した柳ノ丸が原型です。その後、今川氏庶流の那古野氏が城を治めますが、織田信秀に奪われます。城を継承した信長が清洲城に移り、やがて廃城となりました。しかしそれから約半世紀後、旧城地に徳川家康によって名古屋城が築城されます。

那古野城址そのものは荒野になっていましたが、那古野荘の集落は徐々に大きくなり、中世尾張国の中心であった清洲や、稲生、熱田など四方につながる道が形成されました。つまり、那古野荘は中世において既に各地とつながる道路網を有していました。

金城温古録(きんじょうおんころく)に載っている「御城取大体図」では、那古野城下町の道路網を見ることができます。

東西に直線道路が貫いており、西端には「枇杷島に至る」、東部で直線道路と交差してそこから北西へ延びる道の北端に「小田井河原に出る」、交差点から南下した端には「七本松(千代田)」と記されており、城下町の外縁部に向かう道路網が計画的に形成されていたと考えられます。

つまり、近世名古屋城下町の道路網の骨格が、中世那古野城下町時代に造られていたと言っていいでしょう。

清洲の町は戦国時代に既に城郭が構築されていました。五条川を利用した内堀、外堀があり、堀の周囲に土塁も築かれています。城を中心とした武家屋敷とともに、鍛冶屋町、材木町、鍋屋町などの町人町が整然と立ち並び、寺町的な地域もありました。

中世那古野城が放棄されて約半世紀後、その清洲の町がそのまま那古野の町に移され、近世名古屋城下町の基となります。

名古屋開府

いよいよ来月は名古屋開府。那古野城址に名古屋城が築城され、城の南には名古屋城下町も形成されます。乞ご期待。