皆さん、こんにちは。十月になりましたがまだまだ暑い日が続きます。くれぐれもご自愛ください。
昨年から「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺城郭・幕末史―」をお送しています。今年は中世鎌倉街道を東から西に歩いています。題して鎌倉街道を歩く。今月は黒田宿と黒田城を訪ねます。
尾張と美濃の中継地、黒田宿
小栗町を越え、北上すると伊富利部神社に至り、そこから西に進むと黒田宿です。
黒田宿周辺は西に木曽川本流が流れ、木曾八流と言われる中小河川が乱流していた地域です。自然堤防州が広がり、その上を街道や脇道が繋いでいたものと思われます。
湿地帯の中に村があり、稲田と自然堤防を利用した桑畑が広がっていました。桑畑での養蚕、絹糸作りが、江戸時代の織物産地としての発展につながります。
黒田宿は、中世には美濃の墨俣宿と尾張の萱津宿の中継地として栄えました。北宿と南宿があり、この地域随一の市も立っていました。
黒田宿は東山道につながる交通の要衝でした。尾張国と美濃国を隔てる木曽川のすぐ近くにあり、戦略上非常に重要な場所であったため、南北朝時代以降しばしば合戦場となっています。
戦国史の渦中にあった黒田城
戦国時代には黒田城が築かれました。山内一豊が生まれた城と伝わりますが、一豊生誕地には岩倉城説もあります。
明応年間(一四九二~一五〇〇年)に相模国から尾張国に来た五藤源太左衛門光正が館を築いたのが最初と言われています。
一五三二年、岩倉城を本拠とした織田伊勢守家の家老であった山内盛豊が城代として入り、一五四五年、この城で盛豊三男として誕生したのが山内一豊です。
この頃、織田伊勢守家と、織田大和守家の奉行家として勢力を伸長させた織田信長が対立。家老である山内家も巻き込まれ、一五五七年、信長の手勢が黒田城を襲撃して一豊の兄十郎は討死。生き残った山内一族は主家の岩倉城に逃れたものの、翌々年には岩倉城も信長勢の攻撃で落城し、山内家は一豊が豊臣秀吉の下で立身するまで離散することとなりました。
その後犬山城主織田信清の弟広良が城主となりますが、一五六二年、広良が美濃斎藤氏との軽海の戦いで討死。以後、信清家臣の和田新助、その弟定教が城主を務め、その間に信長に臣従します。
本能寺の変の後、一五八二年に織田信雄の家老沢井雄重が入城。沢井は一五八四年の小牧長久手の戦いの際に豊臣秀吉の調略に応じず、黒田城を死守。
しかし、一五九〇年、織田信雄が転封を拒否して豊臣秀吉に改易されたために沢井も城を追われ、黒田城には一柳直盛が入城。
一六〇〇年、一柳直盛は伊勢国に転封され、黒田城は尾張を所領とした松平忠吉の支城となり、家臣の富田忠繁が入りました。江戸時代に入り、尾張藩が立藩すると、黒田城は廃城となります。
剣光寺の黒田地蔵
黒田宿の鎌倉街道沿いにも古刹、古社があります。
伊冨利部神社の創建は延暦年間(七八二~八〇六年)であり、鎌倉街道は神社の裏を通っていました。鎌倉時代、頼朝は一国三所の御札所を定めますが、尾張国においては、真清田神社と国分寺と伊富利部神社でした。
伊富利部神社の北には白山神社。一三〇二年勧請の古社です。一五六年、織田信長と岩倉織田氏が戦った浮野の戦いにより焼失し、その後、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた一柳直盛が黒田城主になって再建しました。
さらに街道を進むと一四九二年創建の法蓮寺。山門右側に通称「黒田妙見」と言われる妙見堂が建っており、大阪の能勢妙見、愛知の内津妙見と合わせて日本三大妙見と称されました。本堂裏墓地には、山内一豊の父盛豊、兄十郎父子の墓があります。
さらに進むと野府川に着きます。川に架かる頼朝橋近くにあるのが剣光寺です。
吾妻鏡には一一九〇年、源頼朝が当地に宿泊したと記されています。寺伝によれば、寺の前で頼朝が乗っていた馬が動かなくなりました。頼朝が馬を降りて境内に入ると、かつて願かけした地蔵菩薩があることを知って感涙。頼朝は宝剣を奉納しました。
一一九九年、頼朝が亡くなった夜に宝剣が霊光を放ち、天を衝いて輝きました。以来、村人たちは寺を剣光寺と呼ぶようになったそうです。寺に伝わる地蔵菩薩は黒田地蔵と呼ばれ、尾張六地蔵の一番地蔵として道中安全を願う旅人の信仰を集めました。
木曽川に近づくと賀茂神社があります。五四〇年創建の古社。古代よりこの地が都と関係があったことの証です。
尾張国鎌倉街道の道中もいよいよ終点の玉ノ井へ。玉ノ井は尾張国の鎌倉街道最西端であり、木曽川の向こうは美濃国です。
古来から木曽川は土砂を多く流し、扇状地と沖積低地が広がる濃尾平野を形成。一五八六年、未曾有の大洪水によって木曾八流のひとつ黒田川(及川)が本流と言われた境川と合流し、現在の木曽川の規模になったと伝わります。
輪之内の城郭
ここから美濃には行かず、南に下って輪之内と呼ばれた輪中地帯に寄り道します。輪之内には多くの城郭があり、戦国時代の要衝でした。乞ご期待。