皆さん、こんにちは。新緑眩しい初夏となりました。とは言え、朝晩は肌寒い日もあります。くれぐれもご自愛ください。
昨年から「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺城郭・幕末史―」をお送しています。今年は中世鎌倉街道を東から西に歩いています。題して鎌倉街道を歩く。今月は日本武尊(やまとたけるのみこと)と関係の深い萱津宿についてお伝えします。
萱津宿
熱田宿から北上し、やがて西に折れて庄内川を渡り萱津宿に向かいます。
尾張国三大渡しは、木曽川、矢作川、庄内川です。岩塚宿から「万場の渡し」で庄内川を渡り、江戸時代に開削された新川、そして五条川を越えてしばらく行くと萱津宿です。
尾張名所図会には五条川と新川が合流する図があり、五条川の上流に萱津神社の鳥居が描かれています。萱津宿の東には東宿がありました。
五条川西岸に沿って南から下萱津、中萱津、上萱津と連なり、清洲の西今宿を通り、下津に至ります。
古代の旅において、国が設けた駅に宿泊できるのは公人だけであり、庶民は野宿です。中世になると、宿のできる前段階として富や身分のある旅人は地元の長者屋敷に泊まるようになります。萱津にも、下萱津の真那長者、中萱津の鴻之巣長者、上萱津の高見長者や上野長者がありました。
萱津が古くから街道の拠点となった理由は二つ考えられます。
ひとつは伊勢街道と美濃街道の分岐点だったことです。平安京になって都が北に動き、次第に東山道を使う経路が普及しました。そのため萱津は、尾張から美濃に入り、不破の関を通って都に向かう美濃街道と、宮宿から桑名、伊勢、鈴鹿の関を進む伊勢街道の分岐点になったのです。
もうひとつは、川の渡し近くに立地したことです。他の街道でも、川の渡しや峠の前後に重要な宿場が発展しました。
伊勢湾の海岸線は徐々に南下していました。平安時代には中萱津付近であったため、萱津神社の漬物神事に因む塩に恵まれていました。
鎌倉時代、室町時代になると、海岸線はさらに南下して下萱津付近に至ります。
阿波手の杜と萱津神社
日本武尊(やまとたけるのみこと)が伊吹山に遠征した際に深手を負って病に倒れ、帰路に草津(萱津)の木の下で休息し、妻の宮簀姫を待ちました。しかし、宮簀媛が駆けつけた時には、日本武尊は既に伊勢に向かって出発した後でした。ふたりが逢うことは叶わず、その地は「阿波手の杜」と呼ばれるようになります。
「不遇(あわで)の森」「あわでの森」「あわでの浦」とも言い、この逸話は歌人や旅人の心を打ち、阿波手の杜は歌枕になりました。
萱津神社は全国で唯一漬物の神様を祀っています。御祭神は鹿屋野比売(かやぬひめ)で、漬物発祥の地、漬物祖神、良縁の神として親しまれています。
濃尾平野では木曽川の氾濫で運ばれる土砂が肥沃な土地を形成しました。萱津周辺も尾張大根の産地として知られ、瓜、蕪(かぶ)、葱(ねぎ)、茄子(なす)などさまざまな野菜が生産され、それらは萱津神社に奉納されました。
海岸線が近く、塩にも恵まれていたため、奉納されたたくさんの野菜を捨てるのはもったいないと考え、保存のために野菜と塩を一緒に壺の中に入れておいたところ、自然発酵して美味しい漬物になったそうです。
日本武尊が東征の帰りに萱津に立ち寄り、里人が献上した塩で漬けた野菜を食べて喜び、「藪二神物」(やぶにこうのもの)と称えたことから、それが漬物をあらわす「香の物」に転じました。
熱田神宮の新嘗祭などで香の物を奉納する儀式は室町時代以前から続いています。
藤吉郎縁(ゆかり)の萱津道場
萱津宿は歴史が古く、界隈には古刹、古社がたくさんあります。
下萱津三社宮神社は、熱田社、津島社、真清田社を合祀したもので、昔の草津川(庄内川)堤防上に一六八六年に創建されました。
宝泉寺は弘仁年間(八一〇~八二三年)創建。別名「獏(ばく)の寺」です。正月に寺が振る舞う宝船を正月二日に枕の下に敷いて寝ると良い夢を見ることができ、悪い夢は獏が食べてくれるとして信仰を集めています。
実成寺は一三一九年創建。本堂は織田敏秀(信長曾祖父)が改修し、山門は福島正則寄進と伝わります。本堂西に中世の宿でもあった真那長者屋敷がありました。
光明寺は一二八二年創建。往時は七十二の僧寮が立ち並ぶ萱津道場として栄えました。豊臣秀吉幼少時代の藤吉郎が八歳から十歳まで預けられたと伝わります。
上萱津妙勝寺は一二六二年、日蓮の弟子日妙が創建し、かつては末寺三十余坊を有していたそうです。
金山神社は約六百年前、斯波氏が清洲に城を築いた頃、武器を作る鍛冶師らを住まわせた際に神社を勧請したそうです。社名は鍛冶に由来しています。
折戸宿と黒田宿
下萱津・中萱津・上萱津を貫く鎌倉街道を北上すると、清洲を通り、折戸(下津)、黒田を経て、木曽川を渡って美濃、近江に至ります。来月は折戸宿と黒田宿についてお伝えします。乞ご期待。