皆さん、こんにちは。いよいよ春本番ですね。でも朝晩は冷え込む日もあります。くれぐれもご自愛ください。
昨年から「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺城郭・幕末史―」をお送しています。今年は中世鎌倉街道を東から西に歩いています。題して鎌倉街道を歩く。今月は熱田社の歴史を旅します。
熱田社
宮宿を通る旅人は熱田社を参拝します。三種の神器のひとつである草薙剣を祀ることで知られる熱田社は尾張国三宮です。
古くから尾張国の南、宮宿の地方大社として知られ、中世以降は日本第三之鎮守として国家的な崇拝を受けるに至ります。第一は伊勢神宮、第二は石清水八幡宮と解されます。
主祭神である熱田大神について、熱田神宮は「三種の神器のひとつである草薙神剣を御霊代としてよらせる天照大神」と説明しています。すなわち、草薙剣(天叢雲剣)の正体(霊代、実体)としての天照大神であり、草薙剣は天照大神、熱田大神と同じであるという捉え方です。
相殿には、草薙剣に縁のある神や尾張国先祖、すなわち天照大神、素盞嗚尊、日本武尊、宮簀媛命、建稲種命が祀られています。
素盞嗚尊は八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した際に尾の中から草薙剣を見つけ、天照大神に献上しました。
天照大神が天孫降臨の神勅を下すにあたって草薙剣、すなわち神剣に霊魂を込め、神鏡(八咫鏡)、神璽(八尺瓊勾玉)ととともに邇邇芸命(ににぎのみこと)に授けて以来、大王家はこれを宝祚の守護(三種の神器)として宮中に祀りました。
日本武尊
第十二代景行天皇の王子日本武尊(やまとたける)は東征の途上で伊勢神宮を参拝した際に叔母である邇邇芸命から渡された草薙剣を携えて蝦夷征伐で活躍しました。
尾張国風土記には日本武尊(やまとたける)が妻であり尾張氏の娘である宮簀媛(みやづひめ)に草薙剣を託し「自らの形影(みかげ)とせよ」と言い残したとあります。
その後、日本武尊は伊吹山に遠征した際に傷と病を負い、そのまま伊勢に向かいます。鈴鹿山を越えた辺りで危篤となり、鈴鹿川の中瀬で亡くなります。
宮簀媛は老いてから、近臣を集め、草薙剣を鎮守するための社地の選定地を諮ります。一本の楓の木が自ら炎を発して燃え続け、水田に倒れても炎は消えず、水田もなお熱かった地を熱田と号して社地に定めたと伝わります。熱田社の誕生です。
源頼朝
熱田社大宮司は代々尾張国造の子孫である尾張氏が務めました。
平安時代後期、尾張国目代として赴任していた藤原南家の藤原季兼(かねすえ)が大宮司尾張員職(かずもと)の娘を娶り、その間に生まれたのが藤原季範(すえのり)です。季範は員職の外孫として大宮司を継ぎました。以降、子孫の藤原南家藤原氏(千秋家)が大宮司、尾張氏が権宮司を務めます。
季範の娘由良御前は源義朝の正室となり、実家の別邸で頼朝を産みました。
熱田神宮近くに誓願寺があります。由良御前が頼朝を生んだ別邸跡です。一五二九年、尾張国吉野城の吉野右馬允の妻である善光上人(日秀妙光尼)が頼朝生誕地を祀り、織田信秀の庇護下で創建した寺院です。
江戸時代になると尾張藩も誓願寺を庇護しました。本堂と山門に葵の御紋があるのは、誓願寺開祖である善光上人が人質時代の竹千代(徳川家康)の教育係だったことに由来します。
尾張名所図会には誓願寺の隣に「きよめ茶屋」が描かれています。熱田社参拝者はここで身を清めた後、参拝に向かいました。「きよめ茶屋」のあった場所には、平清盛に幼い頼朝の助命を嘆願した池禅尼の池殿屋敷があったと伝わります。
信長塀
織田信長は桶狭間の戦いの前に熱田社に戦勝祈願し、勝利した後に塀を寄進しました。土と石灰を油で練り固めて瓦を厚く積み重ねた信長塀は現存し、三十三間堂の太閤塀、西宮神社の大練塀と並ぶ日本三大塀と言われています。
さて、熱田社参拝を終えて宮宿から北上しましょう。
街道を進むと夜寒(よさむの)里があります。熱田社の北にあたり、年魚市潟を見渡せる高台で、武家の別荘地でもありました。
さらに北に進むと古渡に至ります。古渡は古代東海道の駅、新溝(にいみぞ)と比定されます。
古渡から西に折れると鎌倉街道、東海道の脇海道である佐屋街道の万場の渡しに向かいますが、途中庄内川沿いに北上すると、名古屋城下町と尾張北部を結ぶ稲生街道に至ります。
稲生の戦いと万場の渡し
稲生街道は庄内川河岸の稲生を通る道であり、稲生は織田信長、信行兄弟が戦った稲生の戦いの合戦地です。来月は稲生の戦いと万場の渡しについてお伝えします。乞ご期待。