【第248号】年魚市潟の浜道

皆さん、こんにちは。春が待ち遠しい季節になりましたが、まだまだ寒い日が続きます。くれぐれもご自愛ください。

昨年から「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺城郭・幕末史―」をお送しています。今年は中世鎌倉街道を東から西に歩いています。題して鎌倉街道を歩く。今月は年魚市潟を旅します。

年魚市潟の浜道

旅人は東海道を進み、鳴海宿を過ぎて、鳴海台地の嫁ヶ茶屋、古鳴海へと向かいます。

鳴海台地の西に広がる湿地帯は、河川の河口が集中する鳴海潟、年魚市(あゆち)潟です。古代、中世、近世を通して、この一帯は鎌倉街道、東海道の要所です。

河川が運ぶ土砂が堆積し、新田開発も行われ、中世から近世にかけて徐々に陸地化していきました。

江戸時代中期までの年魚市潟の地形は、松巨島(まつこしま)を囲むように、南から、鳴海台地、八事台地、瑞穂台地、熱田台地が取り巻き、その間を、扇川、藤川、天白川、山崎川、精進川が流れ、干潟を形成。松巨島は中州の先端部が独立して島になったものであり、笠寺台地とも呼ばれていました。

鳴海台地の先端に到達すると、そこから先は干潟です。松巨島を経由して宮宿に行く経路は、上の道、中の道、下の道の三本ありました。おそらく、潮の干満等、水位によって選択する経路が違ったのでしょう。

上の道は野並の辺りから干潟に出て、瑞穂台地の井戸田から北上し、熱田台地の古渡に至ります。

中の道は鳴海台地の古鳴海から松巨島に渡り、白毫寺を経て熱田台地の夜寒里に行きます。そこから宮宿や古渡に向かいます。

下の道は鳴海台地の三王山から干潟に出て、松巨島の狐坂(笠寺)に向かい、松巨島の西側、白毫寺辺りから熱田台地の宮宿に至りました。

熱田台地は半島を形成しており、周囲には干潟、河口、湾が入り組んでいました。台地上の熱田神宮近くには尾張最大の前方後円墳、断夫山古墳があります。周囲の古墳群とともに尾張氏の陵墓と考えられます。

愛知の語源

年魚市の音「あゆち」は古代中世の郡名のもととなり、愛知の表記につながります。

万葉集で高市黒人が詠んだ「桜田へ鶴鳴き渡る年魚市潟(あゆちがた)潮干にけらし鶴鳴き渡る」の年魚市(あゆち)に由来し、律令制下で愛知郡という郡名に転じました。歌枕としても親しまれました。

古代には、年魚市のほかに、鮎市(あゆち)、愛智(あいち)、吾湯市とも書かれ、尾張氏の系図の肩書に年魚市評の表記がある人物もいます。七〇一(大宝元)年、大宝律令制定以前は評(こおり)が置かれていたことがわかります。

大宝律令制定を機に、評や県といった行政単位は郡となりました。愛知郡の表記は複数あり、阿由市郡、鮎市郡、年魚市郡と表記されています。

七一三(和銅六)年以降、好字二字令により表記が愛智または愛知に改められたと推測されます。

鮎は誕生してから一年で生涯を終えることから一年魚、略して年魚と記されました。また「あゆ」は「物の湧き出す」ことを意味します。

年魚市潟に流れ込む川では鮎が湧いてくるように獲れたと伝わります。つまり、鮎は川の中から湧いてくる魚という意味です。

そして年魚市潟で湧き出したものとは鮎ならぬ水。多くの河川の水とともに、扇状地の伏流水が湧き出る干潟が年魚市潟です。

七里の渡し

一六〇一(慶長六)年、東海道に伝馬制が敷かれ、五十三次の宿駅が置かれました。

熱田台地の先端に位置する宮宿は、東海道五十三次の四十一番目の宿場。佐屋街道や中山道に至る美濃街道との分岐点です。

一般には宮宿と呼ばれていたようですが、幕府や尾張藩の公文書では熱田宿です。

宮宿と桑名宿の間は海路「七里の渡し」で結ばれました。「桑名の渡し」「熱田の渡し」「宮の渡し」「間遠の渡し」とも呼ばれます。

「七里の渡し」は一六一六(元和二)年に公認された東海道唯一の海上路であり、満潮時の陸地沿い航路は約七里、干潮時の沖廻り航路が約十里、渡し船の所要時間は二~三刻(とき)(四~六時間)でした。

「七里の渡し」は海難事故がしばしば発生する東海道の難所であり、海路を避けたい旅人は迂回路である脇往還、佐屋街道に向かいました。

宮宿は渡船場として東海道随一の賑わいを見せ、旅籠屋数も最大規模を誇りました。

湊町であるとともに、古くからの熱田神宮の門前町であり、名古屋城下、岐阜とともに、尾張藩町奉行の管轄地でした。

宮宿近くには熱田神宮のほか、源頼朝生誕地と伝わる誓願寺、前述のとおり尾張国最大の前方後円墳である断夫山古墳などがあり、旅人が旅情を味わえる好適地でした。

熱田社

来月は宮宿にある熱田社を参ります。宮宿に逗留し、宮宿を通る旅人が洩れなく参拝した名所です。現在の熱田神宮です。乞ご期待。