あけましておめでとうございます。今年も弘法さんかわら版、ご愛読のほど、よろしくお願いいたします。
昨年から「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺城郭・幕末史―」をお送しています。今年は中世鎌倉街道を東から西に歩きたいと思います。題して鎌倉街道を歩く。どうぞお付き合いください。
東海道と鎌倉街道
三河国を横切り、境川を渡ると尾張国に入ります。境川は三河国と尾張国の境界線となっていました。
この地域は、律令制下の尾張国を構成する八郡のうち山田郡に属しました。
古代東海道は、尾張国内に両村(ふたむら)、新溝(にいみぞ)、馬津(まつ)の三つの駅(うまや)がありました。両村は山田郡、新溝は愛智郡、馬津は海部郡です。
駅には駅長(うまやおさ)がおり、旅人に人馬の継立、渡し舟や人足を用意し、食事や宿泊場所を提供していました。駅は後の宿場の原型です。
新溝と馬津の中間地点には、木曽川を渡る草津湊もありました。草津湊はのちの萱津宿に発展します。
中世鎌倉街道には、尾張国内に沓掛、鳴海、熱多(熱田)、萱津、折戸(下津)、黒田の六つの宿が置かれました。
近世東海道における尾張国内の東海道五十三次は鳴海宿と宮宿であり、時代とともに駅や宿の数や場所も変わりました。
伊勢湾の海岸線は古代、中世、近世と時代とともに南下していきます。古代の海岸線は尾張北部に位置しましたが、中世、近世には扇状地が陸地化するとともに、新田開拓も進み、海岸線は南下しました。
そのため、近世東海道は鎌倉街道と重なる部分もありますが、海岸部では概ね鎌倉街道よりも南に位置しています。陸路中山道に向かう美濃街道も鎌倉街道と一部は共有しますが、同じではありません。
両村駅と二村山
境川を渡って尾張国へ入ると、沓掛城、大高城、鳴海城、丹下砦、善照寺砦、中嶋砦、丸根砦、鷲津砦の三城五砦が林立する桶狭間の戦いの舞台です。
桶狭間の戦いの前日、今川義元は鎌倉街道を西進してきました。義元配下であった松平元康(家康)が先鋒を務めたことから、元康の領地である三河は難なく軍を進め、沓掛城に宿泊。その夜の未明、元康は大高城に兵糧入れを行い、翌日の昼に義元は織田信長に討たれました。
沓掛宿は、旅人が駅舎の軒下に藁沓をかけていた様子をみた歌聖在原業平がこの地を沓掛と名づけました。
沓掛を過ぎると高さが約四十間(約七十二メートル)の山が見え、その麓に両村駅がありました。両村は周辺集落の中間地点という意味から自然に生じた地名であり、山の名は両村に準じて二村山となりました。
二村山からは東に濃尾平野、西に岡崎平野が見え、遠くには猿投山、伊吹山、御嶽山が一望できます。古来名勝地、歌枕として知られ、都に向かう源頼朝が立ち寄って詠んだ歌碑もあります。
江戸時代の尾張名所図会には次のように紹介されています。
「絶頂より四望するに、東の方には木曽の御岳・駒ヶ岳、峩々として高く、三河の猿投・村住の双峰黛色深く、苅屋(刈谷)の城、挙母の里までも眼下にさえぎり、北を望めば越しの白山、立山をはじめ、尾濃の数峰連なりて、あたかも波濤のごとし。しばらく目をとどむれば、金城煙雲の間に彷彿たり。西は蒼海洋々として、布帆の往来、漁人の扁舟(小舟)あざやかに、南は知多の浦山、遠くは伊勢の朝熊岳までもここの詠に入る、実に尾張第一の光景といふべし」。
鳴海宿に至るこの道筋は、旅人が道中の安全を祈願した青木地蔵、鹿島神社、十王堂、二村山峠地蔵尊などの仏跡が豊富な地域です。
間宿の有松
古代からある濁池を過ぎ、蔵王権現、八松八幡社、鴻仏目地蔵尊、諏訪社、浄蓮寺、相原観音堂、古鳴海八幡社、野並八剣社などを経て、徐々に名古屋城下町に近づきます。
途中、新海池の辺りには大塚古墳や赤塚古墳があり、古代尾張氏がこの地域まで進出していたことがわかります。
江戸時代には鎌倉街道よりも南に近世東海道が置かれ、街道沿いに有松の町ができました。
桶狭間村と鳴海村の間に位置するこの一帯は人家のない地域でしたが、尾張藩が東海道沿いに新たな村を開くことを計画。一六〇八年、知多郡全域に高札を掲げて移住を呼びかけて開かれたのが有松村です。
一六四一年、この村の絞り染めを尾張藩二代藩主光友が気に入り、尾張の特産品として保護しました。後に五代将軍徳川綱吉に有松絞りの手綱を献上したところ称賛され、有松絞りの名声は天下に轟きました。
有松は沓掛宿と鳴海宿の間宿(あいのしゅく)でしたが、有松絞りに代表される手工業の町として賑わいました。鳴海宿にも鳴海絞りがありました。
年魚市潟の浜道
来月は鳴海宿から宮宿(熱田宿)の経路にある年魚市潟(あゆちがた)の浜道を歩きます。乞ご期待。