いよいよ師走。今年もあっと言うまでした。寒くなりました。くれぐれもご自愛ください。
「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺・城郭・尾張藩幕末史―」をお送している今年からのかわら版。
今年の最後は尾張藩通史です。
初代義直と四代吉通の遺訓
徳川幕府の御三家筆頭尾張藩の領地は尾張全域のほか、美濃、三河、信濃、近江、摂津と広範囲に飛地が存在しました。
木曽御用林からの収入、新田開発分等を含めた実高は約百万石に達していました。
初代藩主義直は家康九男。幼少のため、初期の藩政は家康の老臣たちが担いました。
義直は三代将軍家光とは叔父と甥。微妙な関係にあったこと等も影響し「王命に依って催さるる事」という勤王精神を遺訓としました。
このことは幕末史に影響します。
二代光友に続く三代綱誠の時代に、異母兄松平義昌は陸奥梁川藩の大久保松平家、同母弟松平義行は美濃高須藩の四谷松平家としてそれぞれ独立。
異母弟松平友著は尾張藩内で家禄を得て川田久保松平家となり、この三家が分家御連枝となりました。
分家御連枝は藩主に嫡子が絶えた際に藩主を輩出する役目を担いました。
四代吉通は六代将軍家宣から七代将軍への就任を要請されましたが、大奥や御三家、幕閣が抵抗し、実現しませんでした。
吉通は七代将軍家継誕生直後に亡くなり、同年、息子の五代五郎太も急逝。陰謀めいた話が後世に伝わります。
将軍継嗣騒動に巻き込まれたことが影響し、吉通は「尾張は将軍位を争わず」を遺訓としました。
以来、尾張藩では将軍位を継承するよりも、神君家康公より与えられた尾張藩を護ることの方が大切であるとの家風が形成されます。
このことも幕末史に影響します。
七代宗春と八代将軍吉宗の対立
六代継友は三代綱誠の十一男。七代将軍家継が幼少、病弱であったため、八代将軍の有力候補となりました。
しかし、同じ御三家の紀州藩主吉宗が八台代将軍に就任。ここでも暗闘があったようです。
歴代藩主の中で最も有名なのが三代綱誠の二十男、つまり継友の弟である七代宗春。
当時は将軍吉宗による緊縮的な享保の改革が行われていましたが、尾張藩主となった宗春は、名古屋城下に芝居小屋や遊廓の設置を認め、祭りを奨励し、能楽、歌舞伎、等々、様々な文化を盛んにします。
宗春の藩政は緊縮的な享保の改革を行っていた吉宗の幕政に対立するものでした。
宗春が参勤交代で江戸に下向すると、幕府の意を受けた御付家老竹腰正武が国元で宗春の諸政策を覆す騒ぎとなり、尾張藩内は混乱します。
一七三九年、吉宗は尾張藩内の混乱を理由に宗春に隠居謹慎を申し渡しました。
宗春の従弟八代宗勝は藩政を転換し、倹約令を中心とした緊縮政策を行いました。
高須四兄弟
藩校明倫堂の創設などを行った九代宗睦の実子は早逝。
十代斉朝は御三卿一橋家からの養子でした。
藩祖義直の血統を継いでいましたが、斉朝にも実子がなく、義直からの血統は斉朝の代で断絶します。
十一代斉温、十二代斉荘、十三代慶臧は将軍家や御三卿からの養子。藩政にほとんど関わらず、藩内の不満が高まりました。
藩内では、将軍家周辺からの養子藩主を是認する御付家老等の幕府迎合的な江戸派と、幕府の藩政介入に反発する尾張派、別名金鉄党の対立が浮き彫りになります。
金鉄党は分家御連枝高須藩からの藩主擁立運動を起こします。
結局、、水戸の血筋を引く高須藩主松平義建の嫡子、十四代慶勝(慶恕)が誕生します。
王命尊重の藩祖義直の遺訓、尾張藩護持を諭す四代吉通の遺訓、そして慶勝が水戸系であること、御付家老の対立とそれに付随する藩内抗争等が相俟って、尾張藩の幕末史は複雑化します。
慶勝は水戸系の一橋派に与し、安政の大獄で隠居処分となります。
十五代茂徳は慶勝の弟です。
藩内は慶勝派、茂徳派に二分され、他藩同様、尊攘派、佐幕派の対立に加え、成瀬、竹腰の両御付家老の勢力争いも絡んで混沌とします。
一八六〇年、井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されると慶勝が復権。
一六代義宜は慶勝の息子。慶勝は藩政の実権を掌握し、幕政にも参与して公武合体派の重鎮となり、第一次長州征伐総督に立てられるなど、幕末動乱に巻き込まれていきます。
幕末の京都守護職松平容保会津藩主、京都所司代松平定敬桑名藩主は、慶勝、茂徳の弟です。
茂徳は一橋家を継ぎます。
この慶勝、茂徳、容保、定敬は高須四兄弟として幕末史で重要な役割を担っていきます。
鎌倉街道を歩く
今回はここまでとして、尾張藩幕末史については別の機会に年間を通してお伝えしますが、来月出版の拙著「尾張名古屋 歴史街道を行く」の中でも扱っています。
来年は「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺・城郭・尾張藩幕末史―」の続きとして「鎌倉街道を歩く」をお届けします。
乞ご期待。
それでは皆さん、良い年をお迎えください。