【第245号】清洲城と名古屋城

十一月です。寒くなりました。くれぐれもご自愛ください。

「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺・城郭・尾張藩幕末史―」をお送している今年からのかわら版。今月は清洲城と名古屋城です。

清須会議と小牧長久手の戦い

尾張と聞けば、信長、秀吉、家康の三英傑を思い浮かべますしかし、桶狭間の戦い以前と同様に、本能寺の変、関ケ原の戦い以後の尾張国の史実も意外に知られていません。

一五八二年、本能寺の変で信長と嫡男信忠を討った明智光秀は、山崎の戦いで秀吉に敗れました。

その後の織田家の体制を決めるために清洲城<>に重臣たちが集まります。世に言う清洲会議です。

清洲会議の経過と結論には諸説ありますが、信長の次男信雄と三男信孝が対立する中、柴田勝家は信孝を、秀吉は信忠の嫡男三法師を後継者に推挙し、結局、三法師が家督を相続することで合意。

しかし、まもなく秀吉が信孝と勝家の謀反を理由に合意を反故にして信雄を主君として擁立。秀吉は賤ヶ岳の戦い、北ノ庄城の戦いで信孝、勝家を滅ぼしました。

戦後、信雄が安土城に入って信長後継を宣言しようとしたところ、今度は信雄と秀吉が対立。信雄は隣国三河の家康と同盟を結びます。

一五八四年、秀吉と家康は小牧長久手の戦いで交戦。秀吉は苦戦。結局、秀吉は計略を図って信雄と単独和睦し、大義名分を失った家康は撤兵します。

以後の尾張国は信雄に統治されました。

福島正則→松平忠吉→徳川義直

信雄本拠の長島城が天正地震で倒壊したため、一五八六年、清洲城を大規模改修して居城としました。

その後、信雄は北条氏滅亡後の関東転封を拒んだため、一五九〇年、秀吉に改易され、尾張国は福島正則ら豊臣家武将に分割支配されます。

秀吉没後の一六〇〇年、関ヶ原の戦いが勃発。東軍は清洲城を集結地点として関東から西進。西軍石田三成が敗れました。

戦後、戦功をあげた清洲城主福島正則は安芸広島に加増転封されました。

一六〇三年に徳川幕府が誕生し、江戸時代が始まります。

福島正則の後に清洲城に入封されたのは家康の四男松平忠吉。当時は清洲藩と称し、尾張国全域と美濃国の一部を領地とする五十二万石でした。一六〇六年、家康直轄領であった知多郡も忠吉に与えられましたが、翌一六〇七年、関ケ原の戦いの戦傷がもとで忠吉は二十八歳で早逝します。

その後、忠吉の弟で家康九男の甲斐甲府藩主徳川義直が清洲藩を継承しました。

清須越しと名古屋城

幕府は大坂の豊臣秀頼及び豊臣恩顧の西国大名の反攻に備える必要がありました。

当初家康は清洲城を対豊臣の拠点にしようとしましたが、清洲は庄内川水系の下流域にあって水害が多いこと、水攻めされる危険があること、一五八五年の天正地震で清洲城及び城下町が液状化したこと、当時の清洲城主織田信雄が大規模改修を行ったものの液状化被害の解決に至らなかったこと、城郭が小規模で大量の兵を駐屯させられないこと等々の弱点を懸念しました。

一六〇九年、家康は廃城となっていた那古野城址、つまり名古屋台地(熱田台地北部)の北西端に名古屋城築城を決断。

翌一六一〇年、西国大名を中心とした天下普請を命じ、天守台石垣は加藤清正が普請奉行となりました。

清洲城及び清洲城下町の移転も命じ、清洲城の資材は名古屋城築城に再利用され、清洲城下町は武家屋敷のみならず社寺仏閣、町屋に至るまで丸ごと移転。清洲越しです。

長く尾張国支配の要だった清洲城と清洲城下町は破却され、名古屋城と名古屋城下町が尾張の中心となります。

名古屋城を北端に、南北の本町通、東西の伝馬町筋を主軸にして、碁盤割の城下町が造られました。

碁盤割の範囲は、北は名古屋城に隣接する京町筋、南は大江町筋、西は御園町通、東は久屋町通の範囲です。御園町通の西側には堀川が開削されました。

家臣のみならず、清洲城下の町屋約二七〇〇戸のほとんどが移転し、三社一一〇寺、清洲城小天守も名古屋に移りました。

その際、清洲にあった町名も名古屋に移し、町人は原則として移転時に住んでいた町に住むこととされます。

名古屋移転に伴い、清洲藩は尾張藩と改められます。家格も徳川御三家筆頭という将軍家に次ぐ立場に置かれ、城下町である名古屋は江戸時代中頃には三都に次ぐ大都市となります。

一六一四年の大坂冬の陣、翌一六一五年の大坂夏の陣で豊臣氏は滅亡。豊臣方の侵攻に備えた名古屋城と名古屋城下町は家康の想定した機能を果たすことなく、太平の時代に入ります。

尾張藩通史

そして二六〇年後、尾張藩及び名古屋城、名古屋城下町が幕末の命運を握る局面を迎えます。来月は尾張藩通史をお送りします。乞ご期待。