【第244号】桶狭間の戦い、三城五砦史

早いもので十月。今年もあと三ヶ月弱となりました。朝晩は冷え込みます。くれぐれもご自愛ください。

「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺・城郭・尾張藩幕末史―」をお送している今年からのかわら版。今月は桶狭間の戦、三城五砦史です。

今川義元、最後の夜を過ごした沓掛城

沓掛城は鎌倉街道沿いの要衝にあり、十四世紀に築城されました。

戦国時代の城主近藤景春は松平広忠(家康父)の家臣でしたが、尾張国織田信秀(信長父)が三河へ進出するようになると近隣土豪とともに信秀に帰順。しかし、一五五一年に信秀が亡くなると、鳴海城主山口教継とともに今川義元の傘下に入ります。

一五六〇年、二万五千の大軍を率いた今川義元は沓掛城に入りました。五月十八日、義元は松平元康(家康)に大高城への兵糧入れを指示し、翌十九日朝、沓掛城を出発。義元は大高道を通って桶狭間に入り、そこで信長の奇襲を受けて討死します。

代わって城主になったのは桶狭間の戦で勲功一番と称され、沓掛三千貫文を与えられた簗田政綱。その後は織田信照、川口宗勝が城主を務めました。

一六〇〇年、関ヶ原の戦いで宗勝は西軍に参陣。敗戦後に捕えられ、沓掛城は廃城となりました。

松平元康兵糧入れの大高城

大高城は、桶狭間の戦の前夜、松平元康が兵糧入れを行ったことで知られる城です。

築城は土岐氏が尾張守護であった南北朝時代以前。天文年間(一五三二~五五年)には織田信秀支配下にあり、一五四八年、今川義元が攻めたものの落城しませんでした。

信秀死後、息子の信長から離反した鳴海城主山口教継の調略で、大高城は沓掛城とともに今川方の手に落ちます。これに対し、信長は鳴海城と大高城の連絡路を断つため、大高城近くに丸根砦と鷲津砦を築造。

桶狭間の戦の直前に織田勢の包囲を破って今川方の鵜殿長照が大高城に入り、五月十八日夜には松平元康が兵糧を届け、元康も城の守備につきました。

翌十九日、義元討死の一報を聞いた元康は岡崎城に退き、大高城は再び織田配下となります。廃城となった旧城地に一六一六年、尾張藩家老の志水家が館を建てました。

 標高約四十メートルの丘に建つ平山城です。地形を利用して斜面の中腹に幅広の空堀を備え、内堀北の虎口には三日月堀と称される半月形の丸馬出がありました。

鳴海城包囲網の三砦

鳴海城は応永年間(一三九四~一四二八年)に足利義満配下の安原宗範が築城。

天文年間には織田信秀配下にあり、山口教継が駿河国今川義元に備えるべく城主を務めていました。しかし信秀が没すると、息子信長を見限った教継は今川氏に帰順。教継は息子教吉に鳴海城を任せます。

一五五三年、信長は鳴海城を攻めるも落城させられませんでした。

しかしその後、信長の計略によって今川義元に謀反を疑われた教継・教吉父子は切腹に追い込まれます。城主は今川家譜代の岡部元信に代わり、今川氏直轄の重要拠点となりました。

これに対抗すべく、信長は一五五九年に鳴海城周囲に丹下砦、善照寺砦、中嶋砦を築造。

 翌年の桶狭間の戦では、今川軍は緒戦で大高城近くの丸根砦、鷲津砦を撃破。次は鳴海城を囲む三砦に狙いを定め、戦いを優位に進めていました。ところがその直後、今川義元が討ち取られて総崩れとなります。

三砦攻撃のために待機中であった鳴海城兵は無傷であり、戦力的優位は維持されていましたが、鳴海城主岡部元信は義元の首級と引き換えに城明渡しに応じ、鳴海城は信長の手に落ちました。戦後、佐久間信盛・信栄父子が城主をつとめ、天正年間末期に廃城になります。

桶狭間の戦、前哨戦の丸根砦、鷲津砦

丸根砦と鷲津砦は一五五九年、信長が大高城近くに築造。相互に見通せる距離にありました。

一五六〇年五月十九日、丸根砦には佐久間盛重、鷲津砦には織田秀敏と飯尾定宗・尚清父子を将とする織田軍が立て籠もったものの、松平元康率いる今川軍が攻撃。

報せを聞いた信長が清洲城を出陣し、熱田社に着いた頃には両砦は落城し、煙が上がっていました。

信長は丹下砦へ入り、その後善照寺砦へ移動。義元が桶狭間で休息中と聞いた信長は、さらに中嶋砦を目指します。

砦への道の脇は深田のため一騎ずつしか通れず、敵から丸見えであることから家老衆が制止したものの、信長は振り切って中嶋砦に進軍。

突然の雷雨で視界が遮られたことが幸いし、中嶋砦から出撃した信長は義元本隊に突撃。義元を討ち取りました。

桶狭間の戦後、信長と家康が同盟関係になったために丸根砦と鷲津砦は存在意義を失い、放棄されました。

清須城と名古屋城

中世から戦国時代の尾張国の中心は清洲、そして江戸時代には名古屋が中心となります。来月は清洲城と名古屋城についてお伝えします。乞ご期待