今年は六月から猛暑でしたが、いよおいよ夏本番。くれぐれもご自愛ください。
「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺・城郭・尾張藩幕末史―」をお送している今年からのかわら版。今月は斯波氏と織田氏についてです。
尾張国の鎌倉街道
尾張国の古代は尾張氏が司り、中世は斯波氏が支配します。やがて織田氏が台頭し、近世は尾張徳川家が治めます。
織田信長の生涯はよく知られていますが、中世斯波氏と信長以前の織田氏の歴史は複雑です。尾張の中世史に入ります。
平安時代末期、熱田大宮司を務めていたのは藤原季範(すえのり)です。
季範は父が目代として赴任した尾張国で生まれました。母は尾張氏であったため、季範は尾張氏一族として熱田神宮大宮司を務めることになります。
この頃、都では源平の争いが激化し、その対立が全国に波及しつつありました。武士が古代東海道や東山道で東西を往来する頻度が増し、とりわけ東国武士と繋がる源氏は尾張国を頻繁に訪れていました。
また、季範の養女(孫娘)は足利義康(足利氏祖)に嫁ぎ、熱田大宮司家は足利氏にも血脈をつなぎました。義康から数えて八代目が室町幕府を開く足利尊氏です。
やがて源義朝が季範の娘、由良御前を娶り、ふたりの間に生まれたのが源頼朝です。
また、季範の養女(孫娘)は足利義康(足利氏祖)に嫁ぎ、熱田大宮司家は足利氏にも血脈をつなぎました。義康から数えて八代目が室町幕府を開く足利尊氏です。
頼朝が鎌倉幕府を開くと、鎌倉と京の往還道として、古代東海道と宮宿から東山道に向かう経路が東西交通の要路となりました。尾張国の鎌倉街道です。
尾張守護・斯波氏
鎌倉時代から室町時代にかけて氏姓制度に基づく朝廷支配は形骸化し、朝廷が任命する国司は力を失い、武士が各地の守護大名として台頭します。
室町幕府の足利将軍家とつながりの深い有力氏族のひとつが斯波氏です。斯波氏は鎌倉時代に足利宗家から分家したことに始まります。氏名(うじな)は鎌倉時代に陸奥国斯波郡を所領としたことに由来します。
十四世紀、後醍醐天皇の倒幕運動に宗家足利尊氏が与すると、当主斯波高経がこれに従いました。建武新政を始めた後醍醐天皇と尊氏が袂を分けると、高経はやはり尊氏を支えて室町幕府の有力者となります。
その後、高経の四男義将が執事となり、高経が後見します。執事は足利宗家の家政機関として家領や従者を管理する立場を超え、幕政に参与する有力守護大名の長を意味する管領職に形を変えます。高経は管領の父として幕府の主導権を握りました。
高経没後、義将は三代将軍義満、四代将軍義持を支え、約三十年間にわたって幕府宿老として大きな影響力を持ちました。
斯波氏は畠山氏、細川氏とともに三管領家となり、しかも筆頭の家柄として重んじられます。
義将の子義重は、一三九九(応永六)年の応永の乱における功により尾張守護職に、さらに後には遠江守護職に任じられ、父から継いだ本領越前を合わせた三ヶ国守護職を務めます。以後、戦国期を通して約百五十年間、尾張国は斯波氏の領国となりました。
斯波氏は子孫が代々尾張守に叙任されたことから足利尾張家と呼ばれるようになります。
織田氏の登場
義重は、越前における被官である織田氏、甲斐氏、二宮氏らに尾張赴任を命じ、荘園・公領に給人として配置します。
一四〇五(応永十二)年、義重は尾張守護所であった下津城の別郭として清洲城を築城しました。
一四二九(永享元)年、六代将軍に足利義教が就くと、強権的な政治を行う義教と宥和的な政策を目指す義重の子義淳は相容れません。一四三二(永享四)年、義淳は管領を辞職し、翌年病没しました。
義淳を継いだ弟の義郷やその子義健も相次いで早逝し、その間に勢力を伸ばした細川氏や畠山氏に押され、斯波氏の権勢は大きく後退します。
細川氏が畿内を制し、畠山氏も畿内周辺に領地を有していたのに対し、斯波氏の領国は都から遠い尾張・越前・遠江に分散していました。そのため、斯波氏の当主は都に住み、領国支配を守護代に任せます。
その結果、領国の実権は次第に越前守護代朝倉氏や尾張守護代織田氏等の重臣に握られます。
義健没後、義敏と義廉が家督を巡って争い、その際に将軍家・畠山氏の家督争いも絡み合い、一四六七(応仁元)年に応仁の乱が勃発。義廉は西軍の主力となりました。
一方東軍に属した義敏も越前に下って一円支配を目指しましたが、越前守護代の朝倉氏に実権を奪われました。
尾張では義敏の子孫が守護代織田氏に推戴され、斯波氏は形式的な守護として存続しました。遠江は駿河守護今川氏の支配下となり、斯波氏の越前・尾張・遠江における影響力は失われました。
斯波氏と織田氏
尾張国史に斯波氏の家臣として登場した織田氏。その後、伊勢守家(清洲織田氏)と大和守家(岩倉織田氏)に分かれて勢力を争います。来月は織田家攻防史です。乞ご期待