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「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺・城郭・尾張藩幕末史―」をお送している今年からのかわら版。今月は国分寺と国分尼寺についてです。
氏族仏教から国家仏教へ
日本への仏教公伝は五三八年です(五五二年説もあります)。当初は氏族仏教でしたが、六四五(大化二)年の仏教興隆の詔を機に朝廷が認める国家仏教に転じていきます。
四十五代聖武天皇の頃、平城京で疫病が蔓延し、民衆には不安が広がりました。
これを払拭すべく、七四一(天平十三)年、聖武天皇は各地の国府に国分寺・国分尼寺建立の詔を発します。
国分寺
続日本紀には、尾張国の国府の場所は鵜沼川(木曽川)下流と記されています。
尾張国分寺は矢合町(やわせちょう)椎ノ木辺りと考えられます。三宅川左岸の北東方向、自然堤防上に国府推定地(尾張大国霊神社付近)があります。他の国府と国分寺の位置関係に比べるとかなり遠くに建立された印象です。国府域が広かったとも言えます。
矢合の畑の中に国分寺址の石碑があり、寺域は大規模で、金堂・講堂・塔の遺構が確認されています。金堂・講堂・南大門が南北一直線に並び、金堂左右に回廊があり、その東に塔が配置されていました。
日本紀略には、八八四(元慶八)年に尾張国分寺が焼失し、国分寺を愛智郡の願興寺に移したと記されています。願興寺は十世紀には衰退して廃寺に至ります。
その後の変遷は不詳ですが、創建時の遺構北方において、円興寺から改称した国分寺が法燈を伝承しています。創建期の国分寺跡の北に位置します。円興寺と願興寺の関係は不詳です。
円興寺は十四世紀の創建で、開基は大照和尚、覚山和尚、柏庵宗意と諸説あります。
木造釈迦如来坐像が大小二体あり、いずれも宝髻を結い、宝冠をいただくので、宝冠釈迦像と呼ばれます。寺の南に熱田神宮の神領である鈴置郷があったため、檜材寄木造りの熱田大宮司夫妻坐像も伝わります。
円興寺はかつて北方の一本松の地にありましたが、十七世紀初頭に矢合城址の現在地に移り、その際に旧国分寺の釈迦堂(国分寺堂)が椎ノ木から境内に移されました。
旧国分寺の本尊とされる薬師如来像も安置され、のちに円興寺の本尊となりました。そうした経緯から、旧国分寺の継承寺院となりました。
江戸時代の尾張名所図会では、近隣の円光寺(萩寺)とともに「両円こう寺」として紹介されています。後に円興寺改め国分寺となります。
四楽寺
いずれの国においても、国分寺の周りには徐々に寺院が増えていきます。最初は南都六宗の寺院が創建され、やがて最澄、空海が平安仏教の礎を築くと、天台宗、真言宗の寺院が建立されていきます。
尾張国は奈良や京都、比叡山、高野山に近いことが影響し、南都六宗、天台宗、真言宗の寺院が他国よりも早く、かつ多数建立され、全国で最も寺院数が多い地域となっていきます。
旧国分寺の東西南北には四楽寺と呼ばれた末寺が建立されました。北方の安楽寺、東方の●●●●●、南方の平楽寺長楽寺、西方の正楽寺です。長楽寺の後継は現在の長歴寺です。
国分尼寺
国分尼寺が建立された場所は国分寺跡から北西に半里弱の法花寺町辺りです。
近くにある法華寺が国分尼寺を伝承するとの説もあります。
これは、江戸時代中期の尾張藩士で国学者として知られていた天野信景が著作「塩尻」の中で「国分尼寺の名残が法花寺村の法華寺にあたる」と記して以来の説です。
九八八(永延二)年の尾張国郡司百姓等解文、一〇〇九(寛弘六)年の大江匡房奏状において国分尼寺修造に関する記述があり、国分寺より長く十一世紀までは存続したことが確認されています。
その後の経緯は不詳ですが、寺伝によれば永正年間(一五〇四~二一年)に無味禅公が才赦桂林を招いて尼寺跡地に堂宇を建て、国鎮寺と号したことに始まります。織田氏の兵火に遭ったものの、残った小堂を現在地に移し、後に法華寺と改称しました。
法華寺から西へ半里弱の位置に建仁年間(一二〇一~〇四年)創建の善応寺があります。織田信長の鉄砲隊長であった道求一把が再興したと伝わります。この地域には尾張氏や織田氏との由来が伝わる社寺が多数あります。
善応寺の南東一里弱の位置に長暦寺があります。上述のとおり、四楽寺のひとつ長楽寺の法燈を継承する寺院です。
斯波氏と織田氏
国府、国分寺、国分尼寺と揃った尾張国。都にも近く、豊かな尾張国の守護として斯波氏が任命されます。来月は斯波氏と織田氏についてです。乞ご期待。