春が待ち遠しい季節になりました。とは言えまだまだ寒い日が続きます。くれぐれもご自愛ください。
「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺・城郭・尾張藩幕末史―」をお送りしている今年からのかわら版。今月は東海道、佐屋街道、美濃街道の概要をご紹介します。
七里の渡しと佐屋街道
江戸時代、東国から都に向かう旅人は境川を渡って尾張国に入ります。鳴海潟、松巨島(まつこしま)を経て宮宿(熱田宿)に至ると、経路は三手に分かれます。
宮宿から海路桑名宿に渡るか、あるいは北上して古渡に行き、そこから西進して佐屋街道に入り、佐屋宿から佐屋川を下って桑名宿に向かいます。
また、陸路で都に向かう旅人は、古渡から北西に進み、美濃街道を通って萱津宿、稲葉宿を経て木曽川を渡り、中山道を目指しました。
境川から宮宿までを歩きましょう。旅人は三河国と尾張国の国境である境川を渡ると、鳴海台地を西に進み、鳴海宿、鳴海潟を経て宮宿を目指します。
鳴海宿から宮宿に至る道は、年魚市潟(あゆちがた)に浮かぶ松巨島の北を通る上の道、中央を抜ける中の道、南を進む下の道が代表的な三経路です。
宮宿から桑名宿の海路は距離が七里であることから「七里の渡し」と呼ばれました。
古代東海道は尾張国の両村(ふたむら)、新溝(にいみぞ)、馬津(まつ)の駅(うまや)を経て伊勢に入る陸路のほか、知多半島西岸から伊勢湾を横断することもあったようです。「七里の渡し」の原形です。
近世東海道の宮宿から桑名宿の海路は波が高く、危険を伴いました。そこで海路を避けたい旅人は陸路佐屋宿まで歩きます。佐屋宿から船に乗って佐屋川を下れば、川伝いに桑名宿に到着できるので、海路より安全でした。宮宿から佐屋宿に行く陸路は佐屋街道と呼ばれます。
佐屋街道の北には津島街道がありました。甚目寺や津島神社への参詣道でもあります。津島街道の途中には、織田信長生誕地説のひとつである勝幡城(しょばたじょう)があります。
鎌倉街道・美濃街道・東海道
さて、陸路だけで都を目指す旅人は、佐屋街道には向かわず、さらに北上して美濃街道に入ります。
庄内川を渡ると萱津宿です。その北には清洲があり、五条川に沿ってさらに北上すると下津(折戸)宿です。下津界隈は稲沢であり、律令時代の国府が置かれ、国分寺、国分尼寺が造られました。
萱津宿から先は、古代、中世においては、折戸宿、黒田宿、近世においては稲葉宿、萩原宿、起宿等を経て木曽川を渡り、美濃国に向かいます。
一宮との境界線である青木川を越えて北上した旅人は、尾張一宮にある真清田神社に参拝して黒田宿に向かいます。
黒田宿は尾張国と美濃国を隔てる木曽川の左岸にあり、古くから要衝でした。黒田宿を出ると旅人は木曽川の渡し場である玉ノ井に向かいます。
これらの道筋は中世鎌倉街道、近世東海道の主要経路です。この経路から分岐して、中山道につながるのが岩倉街道や岐阜街道であり、戦国時代には経路上に織田信長が居城した清洲城、小牧山城、岐阜城がそびえました。要衝であった証です。
金華山の岐阜城から濃尾平野が一望できます。在りし日の信長が、宮宿から延びる街道や街道沿いの城郭を眺めていた姿が思い浮かびます。
名古屋城下町と名古屋五口
都が平城京から平安京へ北に移動したことに伴い、桑名から伊勢国を経由する古代東海道よりも、鎌倉街道、美濃街道を使って近江を目指す旅人が増えました。この経路が基となって近世東海道が整備されます。
さて、宮宿から古渡を経て北上すると、名古屋城下町です。一六一〇(慶長十五)年に徳川家康の命で造られた近世を代表する城下町です。
南北の本町通と東西の伝馬町筋は城下町の骨格を形成します。その交差点は高札場があったことから「札の辻」と呼ばれていました。
城と宮宿を結び、東海道につながるのが本町通です。外堀と城下町の間を東西に走る京町筋の西からは美濃街道、東からは上街道(木曾街道)、下街道(善光寺街道)につながります。
城下町の外縁には、志水口、大曽根口、三河口(岡崎口)、熱田口、枇杷島口の「名古屋五口」があり、そこから脇街道に出ます。
志水口から北へは上街道、大曽根口から北東には下街道、三河口から南東には飯田街道(駿河街道)、熱田口から南には常滑街道、枇杷島口から北西には美濃街道と、脇街道網が整備されていました。
これらの街道は名古屋城下から周辺地域への接続路であり、城下町中心部、外縁部から放射状に延びていました。
尾張氏と日本武尊(やまとたけるのみこと)
さて、尾張国の街道の骨格をご紹介しましたが、この尾張国は古くから大王家(のちの天皇家)と関係の深い尾張氏が治めたので「尾張」と言います。
来月は尾張氏と日本武尊の歴史をご紹介します。乞ご期待。