【第235号】尾張国の歴史

あけましておめでとうございます。弘法さんかわら版、今年もどうぞよろしくお願いします。

今年から新シリーズ「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺・城郭・幕末史―」をお送りします。まず今年は尾張国の歴史を旅します。どうぞお付き合いください。

街道の国

尾張は街道の国です。街道沿いに社寺が創られ、要衝に砦や城が築かれ、宿場が置かれました。街道の経路は時代とともに変遷しました。

街道のそこかしこに、尾張氏、斯波氏、織田氏、豊臣氏、徳川氏の歴史が刻まれています。

尾張は、木曽川、長良川、揖斐川の木曽三川や、濃尾平野中央を流れる日光川や庄内川、年魚潟に流れ込む中小河川が作り上げた肥沃な扇状地です。伊勢湾の海岸線は時とともに徐々に南下し、東海道や鎌倉街道の経路に影響を与えました。

扇状地の端には自然堤防が形成され、江南、大口、一宮、稲沢等の尾張北部の町はその上に生まれました。つまり、先史時代の海岸線は尾張北部に迫り、尾張南部は海でした。

尾張の地名の由来

尾張と聞けば織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑があまりにも有名ですが、信長以前はあまり語られません。

そもそも尾張は尾張氏が支配したから尾張と呼ばれるようになりました。律令時代以前に大和国葛城郡に高尾張という集落があり、そこから移り住んだ人々が尾張連(おわりむらじ)と呼ばれ、地名と氏(うじ)名として定着します。

古代において「おはり」は「小墾(こはり)」と書き、「墾」は土地を拓いて開墾することを意味します。接頭語の「小」は「御」が転じたものです。「小治」「大治」と書き、それらが尾張に変化したとする説もあります。「烏波利」「尾治」と書かれた木簡や古文書も見つかっています。

氏名の由来には諸説あるものの、大和王権の大王家と関係の深い尾張氏が治めていた土地が、すなわち尾張です。

そして律令時代には、都と東国を結ぶ古代東海道が尾張国を通りました。

斯波氏と織田氏

尾張氏は国造(くにのみやつこ)を務め、熱田神宮大宮司も代々継承します。やがて、尾張氏の娘と婚姻した藤原氏が大宮司を務めるようになります。

平安時代末期の大宮司であった藤原季範の娘、由良御前が源義朝に嫁ぎ、源頼朝を産みました。また、季範の養女(孫娘)も足利義康(足利氏祖先)に嫁ぎ、足利氏にも血脈を繋いでいます。義康から数えて八代目が室町幕府を開く足利尊氏です。

鎌倉時代には鎌倉と都の間を往来するために、古代東海道がもとになった鎌倉街道(鎌倉往還)が発展し、尾張国は複数の駅(うまや)を擁します。

室町時代初期には美濃国守護の土岐氏が尾張国守護を兼ねていましたが、一四○○年頃に斯波義重が尾張守護に任じられます。

義重は越前国守護でしたが、尾張と遠江の守護も兼ねます。その際、越前守護に仕えていた織田氏も尾張に移り、尾張国の給人となりました。給人とは領主の命を受けて領地を支配する者を指します。

織田氏の先祖は越前織田の劔神社の神職であり、子孫が守護の斯波氏に仕えました。斯波氏は室町幕府の三管領家のひとつです。

やがて織田氏は斯波氏から尾張守護代を命じられ、大和守家と伊勢守家に分かれて勢力を競います。信長はその大和守家の三奉行家のひとつ、弾正忠家(だんじょうのじょうけ)に生まれました。

織田信長の臣下であった豊臣秀吉、同盟者であった徳川家康など、尾張国は多くの武将を輩出しました。

江戸時代の大名は三英傑の配下から出た者が多く、徳川家康に仕えた三河出身者のほか、前田、浅野、池田、山内、蜂須賀などの尾張出身者が各地で大名となりました。系譜を辿ると全国の大名の約7割が尾張と三河の出身者です。

尾張は徳川御三家筆頭、尾張徳川家の領地となり、三河は譜代大名、旗本領、社寺領、天領となりました。

この間、尾張には街道が発展します。もちろん中心は近世東海道です。古代東海道、中世鎌倉街道が原形ですが、経路は変わったところもあります。

東海道、佐屋街道、美濃街道

そもそも、古代東海道は律令時代に定められた五畿七道のひとつです。

五畿とは大和・山城・摂津・河内・和泉の畿内五国を指し、七道は畿外の東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道の七つの地域を表します。

江戸時代になると、一六一〇(慶長十五)年の名古屋開府に合わせ、徳川家康の命で近世東海道が整備されます。そして、周辺地域との間には脇街道が誕生します。

来月は東海道、佐屋街道、美濃街道を概観します。乞ご期待。