【第233号】西国三十三所

皆さん、こんにちは。早いもので今年も十一月。冬本番です。くれぐれもご自愛ください。

来月は愛知県内にある様々な 写し霊場をご紹介しますが、その中には西国三十三所の写しもあります。
二大巡礼は四国遍路と西国三十三所です。今月は西国三十三所についてお伝えします。
ちなみに 巡礼は一般名詞ですが、遍路は四国霊場巡りのことを指します。の写しもあります。

西国三十三所の始まり

西国三十三所の起源については、二十四番中山寺の縁起である「中山寺来由記」、三十三番華厳寺の縁起である「谷汲山根元由来記」に次のように記されています。

七一八年(養老二年)、大和長谷寺の開基、徳道上人が重い病で生死をさまよう中、夢に閻魔大王が現れました。大王は「生前の罪業によって地獄へ送られる人々を救うために、滅罪の功徳がある三十三ヶ所の観音霊場をつくり、人々に巡礼を薦めよ」と言い、起請文と三十三の宝印を授けたそうです。

蘇生した上人は三十三観音霊場を開創しますが、人々に広く信仰され、巡礼が盛んになるには至りませんでした。上人は機が熟すのを待つため、三十三の宝印を中山寺の石櫃に納めました。上人は八十歳で亡くなり、いつしか三十三観音霊場は忘れ去られました。

それから約二百七十年後、若き花山天皇(六十五代)は権勢を振う藤原氏の権力闘争に巻き込まれ、在位わずか二年で退位。弱冠十九歳で法皇となりました。無常を感じた法皇は比叡山に遁世。やがて熊野に行き、那智山で千日籠山修行。その折、熊野権現が姿を現し、徳道上人が定めた三十三観音霊場を再興することを託されました。

法皇は中山寺で宝印を探し出し、圓教寺の性空上人の勧めにより、石川寺の仏眼上人に同道して三十三観音霊場を巡拝。これを機に、西国三十三所が始まりました。

晩年、花山法皇は京都花山院に住み、一〇〇八年、四十一歳で生涯を閉じました。

西国三十三所の札所

こうして誕生した西国三十三所は、一番那智山青岸渡寺(和歌山)から三十三番谷汲山華厳寺(岐阜)に、徳道上人、花山法皇ゆかりの番外三ヶ寺を加えた三十六ヶ寺を巡ります。興福寺、醍醐寺、清水寺など、著名な古刹も含まれています。

結願お礼参りに信濃善光寺を参詣して三十七ヶ寺巡りとしたり、善光寺に加え、高野山金剛峯寺、比叡山延暦寺、奈良東大寺、大阪四天王寺のいずれかにお礼参りする風習もあるそうです。

一番から三十三番までの巡礼道は約一〇〇〇キロメートル、四国遍路の約一四〇〇キロメートルより少し短い道のりです。

ちなみに、三十三という数は、「妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五」(観音経)の中で、観世音菩薩が人々を救うために三十三の姿に変化することに由来します。西国三十三所を巡礼すると、観世音菩薩の功徳によって現世での罪業が消え、極楽往生できると信じられています。

四国遍路と西国三十三所

僧尼、武士、貴族のみならず、人々にも西国三十三所が広まると、地方の有力な武将や豪族などが西国写し霊場をつくるようになりました。

最も早期の写しは鎌倉時代初期の十二世紀前半、源頼朝によって発願され、源実朝が札所を定めたと伝わる坂東三十三所。関東一都六県にまたがる観音霊場です。

室町時代になると秩父三十四所も開創されました。当初は三十三所でしたが、札所間の揉め事に起因して一ヶ寺増やして三十四所。西国、坂東と合わせて日本百観音も誕生しました。

岩尾城跡(長野佐久)にある一五二五年銘の石碑に「秩父三十四番 西國三十三番 坂東三十三番」と彫られており、この頃には日本百観音が確立していたようです。

坂東三十三所、秩父三十四所が定着するにつれ、元祖である近畿の観音霊場には西国の文字が冠され、西国三十三所西国三十三所と呼ばれるようになりました。

三十三所の写し霊場は現在全国各地に六百以上あるようです。もちろん、愛知県にもあります。

愛知県は写し霊場の宝庫

さて、今年もあとひと月。昨年から三河新四国をご紹介してきましたが、愛知県には四国遍路四国遍路や西国三十三所等の写し霊場がたくさんあります。言わば、霊場の宝庫です。来月は愛知県の写し霊場をご紹介して年末を迎えたいと思います。乞ご期待。