皆さん、こんにちは。十月も後半に入り、朝晩は肌寒くなりました。くれぐれもご自愛ください。

寺院数日本一は愛知県ですが、今日は神社についてお伝えします。

神社数日本一は新潟

寺院と神社を総称して寺社仏閣というように、両者は混交した存在です。全国津々浦々、身近な場所に寺院と神社の双方があるのが日本です。

文化庁「宗教年鑑(令和元年版)」に基づくと、全国の神社数は八〇九八三、神道系宗教団体数は八七四九七です。

都道府県別の神社数最多は新潟の四七〇六、以下兵庫、福岡、愛知、岐阜の順です。

一方、最少はやはり沖縄の十五。次いで、少ない順に和歌山、宮崎、大阪、山口です。人口も多く、縁起を担ぐのが好きそうな大阪に神社が少ないのは意外です。

新潟は実数では日本一をずっと維持しています。なぜそんなに多いのでしょうか。最大の理由は、新潟の人口はかつて日本一だったという意外な事実です。

一八八八年(明治二十一年)の国勢調査では、新潟の人口は一六六万人で最多。二位は兵庫の一五一万人、三位は愛知の一四四万人。東京は一三五万人で愛知に次ぐ四位です。続く一八九三年(明治二十六年)の調査でも、新潟はさらに増えて一七一万人で一位を維持しています。

人口が多いうえに、新潟では集落ごとに神社があります。農業地域で自然の恵みを意識せざるをえない新潟では、自ずと神社の数が多くなったのかもしれません。

ちなみに、寺院と神社の合計でみると、愛知が七九一六で一位、新潟が七四八五で二位。両県で日本全国の寺社の九・八パーセント、約一割を占めます。

神仏習合の日本仏教

神社に触れたのは日本仏教の特徴が神仏習合、神仏混交だからです。寺院が多ければ神社も多いという関係にあります。

日本への仏教公伝は通説では五三八年。大陸から伝来した仏教は異文化、外国の宗教であり、それを日本の天皇や朝廷が信仰し、仏を祀ることはできません。日本には古(いにしえ)からの自然崇拝、八百万の神々を敬う民族宗教があり、天皇はその祭司の長、神道の長だからです。

しかし、徐々に浸透した仏教は、日本古来の自然崇拝、神道と調和融合します。すなわち、神仏習合、神仏混交です。

最初は仏教が主、神道が従として混交しました。その結果、奈良時代には神社に神宮寺が建てられるようになり、平安時代に本地垂迹説が生まれました。本地である仏や菩薩や天部が、仮の姿である神として人々の前に現れるという考え方です。

本地とは「本来のこと」を意味し、垂迹とは「迹(あと)を垂れる(神仏が現れる)」ことを意味します。

たとえば、阿弥陀如来の垂迹は八幡神、大日如来の垂迹は伊勢神、阿弥陀如来の垂迹は熊野神,観音菩薩の垂迹は賀茂神です。

二千五百年前にインドで生まれた仏教が、ヒンズー教やインドの諸神と向き合った際も、中国で仏教が道教と接した時にも、同じような考え方で融合が起きたそうです。

神仏習合の思想と親和的で、積極的に仏教と混交したのは八幡神です。東大寺大仏造営に協力した宇佐八幡が典型例であり、最初に菩薩号がつけられたのも八幡神です。

平安時代には熱田権現、蔵王権現など「権現」という考え方を生み、神仏習合、本地垂迹は深まっていきます。仏や菩薩や天部が、人々を救うために仮に姿となって現れる神のことを権現(ごんげん)すなわち「仮の現れ」と呼びました。権現の権とは「仮」「臨時」という意味です。

仏教側から神道を理論的に説明する神道理論も登場しました。当時の仏教界の主流であった密教二宗のうち、天台宗の教えを取り入れたのが山王神道、真言宗の教えを取り入れたのが両部神道です。

反本地垂迹説

神仏習合はさらに深化し、神の昇華を祈念して建てられた神宮寺に、逆に鎮守社を設ける風習も現れました。

やがて神道側から、神道を主、仏教を従とする反本地垂迹説も現れました。室町時代に入ると、如来は天皇の垂迹であると考える吉田神道や伊勢神道などの系譜も生まれました。また、仏教は花実、儒教は枝葉、神道が根本であるとする根葉花実論も登場しました。

神社の系譜は仏教以上に多様です。神道、信仰にもそれぞれ系譜があり、それらは相互に複雑に絡み合っています。

神社の上社は、諏訪大社、熊野大社、宗像大社、秋葉神社など、多様です。神道の系譜も、古神道(原始神道)、神社神道、皇室神道、教派神道、民族神道など、十数系統に分かれます。信仰の系譜も、八幡信仰、伊勢信仰、天神信仰、稲荷信仰、熊野信仰、白山信仰、春日信仰、浅間信仰など、多岐にわたります。

西国三十三所

かわら版は四国八十八ヶ所の話から始まりましたが、二大巡礼は四国遍路と西国三十三所です。来月は西国三十三所のルーツなどについてお伝えします。乞ご期待。