【第228号】大浜寺町を散策

皆さん、こんにちは。今年は梅雨入りが早く、夏が待ち遠しい季節になりました。コロナ禍の中、ご自愛ください。

昨年からお伝えしている 三河新四国八十八ヶ所霊場場。今月も大浜寺町を散策します。

千体地蔵

八十一・八十二番から、大浜を南北に貫く道路を北上すること約二百メートル、途中、藤井達吉現代美術館、九重味醂大蔵、清沢満之記念館を横目に進むと八十三番、聖道山常行院。浄土宗のお寺です。

一五二六年創建で、開山は徳川家菩提寺、大樹寺八世の隣誉上人です。

八十四番は本堂の北側にある聖道殿。そのご本尊、日限地蔵尊は武田信玄の陣中守り本尊の地蔵大菩薩。

一八六八年、当寺二十世、麻生徳雲和尚が遠州応聲教院から譲り受けたそうです。

また、珍しい土づくりの千体地蔵は、天保大飢饉の際に、周辺の住民から救済を祈願して寄進されたものです。

元松江代官所の山門、京都六角堂から移された沙門宗連作の聖徳太子像など、見どころの多いお寺です。

ご本尊(八十三番) 阿弥陀如来

ご本尊(八十四番) 日限地蔵尊

ご詠歌 いつまでも 常ゆく寺の さかゆるは なやむ大師の お慈悲なりけり

当麻寺の三尊像

八十三・八十四番の約五十メートル先、北隣にあるのが八十五番、華慶山林泉寺。曹洞宗のお寺です。

一四五七年創建。寺宝として伝わる三尊仏(釈迦、、文殊、普賢)の掛け軸は、もともと奈良当麻寺にあった七百五十年前の源慶作。

当麻寺は奈良県葛城市にある名刹。開基は聖徳太子の異母弟麻呂古王と伝わります。奈良時代末期、平安時代初期建立の二基の三重塔(東塔、西塔)があり、近世以前建立の東西両塔が残る日本唯一の寺としても知られています。

その当麻寺にあった源慶作の掛け軸。源慶は平安時代後期から鎌倉時代前期の仏師で、運慶の弟子です。

林泉寺境内は禅寺の雰囲気を感じさせる静寂が漂います。八十六番は山門を入ってすぐの弘法堂です。

ご本尊(八十五番) 聖観世音

ご本尊(八十六番) 大聖歓喜天 大師像

ご詠歌 衣浦の 海をはるかに見渡して 法の林に 泉湧く寺

加藤菊女と深称寺

結願の前に「大浜十ヶ寺巡り 」の残るひとつ、深称寺 にも立ち寄ります。八十七番・八十八番に向かう途中です。地元では、信仰心の厚い江戸時代の才女、加藤菊女ゆかりの寺として親しまれています。

菊女は一七〇三年、尾張藩士の娘として生誕。当地の代官、加藤四郎左衛門の子息友右衛門に嫁入り。上品な人柄で書画の才に優れた教養豊かな女性だったそうです。

一七一八年、三州中山(現碧南市伏見屋)貞照院で起きた孫市騒動(注) の責任を問われ、四郎左衛門に島送りの沙汰。菊女の夫、友右衛門が高齢の父の身代わりとして伊豆大島に送られました。

    
(注)江戸白木屋で袈裟地織物を騙し取った僧が逃亡の末、貞照院に侵入。犯人(僧)を捕らえようとした孫市(大浜の賭場の親分)を中心とした村人が駆けつけた役人を犯人と間違え、役人に暴行している間に犯人が逃走。公儀からこの不始末を咎められ、孫市は打ち首、貞照院の住職と大浜代官(加藤四郎左衛門)が島送りの刑に処せられた騒動。

菊女は大浜の熊野権現 に日参、毎夜はだしでお百度参り、熱心に夫の無事と放免を祈願しました。夫の両親を支え、夫の留守を守り、写経に打ち込みました。そして、毎日のように写経と夫への手紙を竹筒に納めて海に投じました。

ある日、伊豆大島の友右衛門が舟釣りしていたところ、竹筒が漂着。友右衛門が竹筒を何度海に押しやっても戻ってくるのを奇異に感じ、拾い上げて中を見て驚愕。何と菊女の手紙と写経です。

友右衛門がことの次第を申し出た島の役人も感服して幕府に上申。幕府は菊女の殊勝な行いに免じて友右衛門を赦免。友右衛門は八年振りに大浜に帰りました。

菊女はその後も神仏の加護に感謝して写経を続け、寺々に納経。今も林泉寺、妙福寺、貞照院、称名寺、宝珠寺などに残っているそうです。また、亀久の揮毫で優れた書画の才も発揮し、三十六歌仙の画や和歌を近隣の寺社に奉納しました。

菊女は淑女、良民の鑑として顕彰され、大浜熊野大神社の境内に碑が建てられました。菊女の墓は宝珠寺境内にあります。

深称寺に宝珠寺、西方寺、本伝寺を加えた番外四ヶ寺に、観音寺、称名寺、清浄院、海徳寺、常行院、林泉寺の六ヶ寺で「大浜十ヶ寺巡り」の十ヶ寺です。

山崎弁栄上人

来月は、三河新四国もいよいよ結願です。八十八番、法城寺に向かいます。

山崎弁栄上人 ゆかりのお寺です。乞ご期待。