【第227号】大浜寺町を散策

皆さん、こんにちは。早くも初夏の季節。新緑を眺めて自粛疲れを癒しましょう。

昨年からお伝えしている 三河新四国八十八ヶ所霊場場。今月も大浜寺町を散策します。

清沢満之と西方寺

先月は八十一・八十二番の海徳寺、大浜十ヶ寺巡りのひとつ宝珠寺を訪ねました。

海徳寺、宝珠寺の向かい側には、明治時代の仏教界の偉人のひとり、清沢満之(まんし)ゆかりの西方寺があります。

海徳寺から八十三番に向かう途中にある西方寺も大浜十ヶ寺巡りのひとつです。

鎌倉時代に棚尾村に創建された寺が一四九六年、現在地に移され、西方寺と改称されました。

二十八世住職に親鸞、蓮如の血筋を継ぐ慈寛を迎え、以来現住職までその系譜が受け継がれているそうです。

寺内の太鼓堂は明治時代初期の校舎。碧南の学校教育発祥の地です。また、源義朝を美浜法山寺(五十五番)の湯殿で討った後に棚尾に逃れてきた長田一族の刀剣など、数多くの寺宝を有します。

西方寺は清沢満之(一八六三?一九〇三年)終焉の寺としても知られています。

満之は明治時代に活躍した真宗大谷派の僧、哲学者、宗教家です。

尾張藩士の子として誕生。明治維新後の一八七八年に得度して真宗大谷派の僧となり、東本願寺育英教校に入学。一八八七年には東京帝国大学文学部哲学科を首席で卒業した俊才です。

哲学館(現東洋大学)創設時の評議員や教員、京都府尋常中学校の校長等を務める中、縁あって当寺の清沢やす子と結婚し、清沢姓になりました。

やがて制欲自戒生活を始め、黒衣黒袈裟姿で、食膳は麦飯一菜、酒はもちろん茶すら飲まず、素湯もしくは水のみを飲用。自戒生活の中で体得した哲学的思考やそれに基づく著書は海外でも評判になりました。

東本願寺における近代的な教育制度や組織の確立を期して数々の改革を建議し、しばしば宗門と対立したものの、その識見、能力は優れ、真宗大学(現大谷大学)初代学監(学長)も務めました。

一九〇三年、肺結核が悪化し、改革の志半ばにして当寺で逝去。享年三十九歳でした。

生前、鈴木大拙 に高く評価されていた満之でしたが、早逝したこともあり、長らく忘れ去られた存在でした。

しかし、一九六五年の中央公論の座談会「近代日本を創った宗教人百人を選ぶ」で司馬遼太郎が満之を取り上げたことからその名が知られ、やがて岩波書店から満之の全集が発刊されるに至りました。

満之は、正岡子規、夏目漱石等、同時代の多くの人に影響を与えたと言われています。当寺に隣接して清沢満之記念館 が設けられています。

藤井達吉

大浜寺町には、札所の他にもいくつかご紹介したい先があります。それらを含む全体で大浜寺町が独特の雰囲気を醸し出しています。

八十一番・八十二番から北上して八十三番に行く途中、右手の現代的建築物が目を引きます。藤井達吉現代美術館です。

藤井達吉(一八八一年?一九六四年)は棚尾村(碧南市源氏町)生まれ、棚尾小学校卒の芸術家です。

達吉は小学校卒業後の奉公を終えると、服部七宝店(名古屋)に就職。一九〇五年、七宝焼出展のために米国オレゴン州で開催された万博に出張。その際、ボストン美術館で世界の美術作品を見て刺激を受け、帰国後に七宝店を退職。美術工芸家として活動を始めました。

七宝焼、日本画、陶芸、金工、竹工、漆工、刺繍、染色、和紙、書、和歌等の幅広い工芸分野で活躍し、日本の新しい芸術創造に足跡を残しました。

一九二九年、帝国美術学校(現武蔵野美術大学)設立時に教授を務めたほか、一九三二年には西加茂郡小原村(現豊田市)で和紙工芸の指導も始め、生涯工芸振興に人生を費やし、岡崎市で亡くなりました。

九重味醂大蔵

藤井達吉美術館の前にあるのが九重味醂大蔵。西方寺に隣接する清沢満之記念館と向き合っています。

九重味淋は碧南市浜寺町に本社がある調味料製造の老舗。二十二世石川八郎右衛門信敦 が一七七二年に味醂製造を始め、以来約二百五十年、味醂の製造を続けています。

大蔵は貯蔵熟成に用いるための蔵で、一七八七年に名古屋市緑区鳴海の酒蔵を現在地に移築したもの。二〇〇五年、大蔵は登録有形文化財となりました。大浜寺町の歴史的景観に一役買っています。

加藤菊女と深称寺

三河新四国もいよいよ結願が近づいていますが、大浜十ヶ寺巡りにはまだまだ見所があります。

来月は、良民淑女の鑑(かがみ)と言われる加藤菊女ゆかりの深称寺を訪ねます。乞ご期待。