皆さん、こんにちは。いよいよ秋本番。朝晩は冷え込みます。くれぐれもご自愛ください。
今年のかわら版は 三河新四国八十八ヶ所霊場についてお伝えしています。さて、今月から蒲郡市に入ります。
三河高野山の金剛寺
三河新四国最東端の四十三・四十四番から折り返し、一路西に向かいます。
国道一号線から御津を経て国道二十三号線に入り、三河湾を眺めながら西に進むこと約十五キロメートル。
三谷温泉を擁する乃木山にあるのが四十五番、弘法山金剛寺。
真言宗高野(山)派のお寺、三河高野山とも称されます。
蒲郡市には、三谷のほかにも形原、西浦などの温泉街がありますが、三谷は最も長い歴史を持つ愛知県下有数の古湯。行基による発見と伝えられます。
寺伝によれば、当寺の前身は大同年間(八〇六年?八一〇年)に弘法大師が開創。その後、現在の金剛寺は一九三八年(昭和十三年)に名古屋の財界人滝信四郎が開創。前年には高さ三十メートルの、弘法大師像も寄進しています。
滝信四郎は一八六八年(慶応四年)生まれ。一八九五年(明治二八年)に名古屋の繊維問屋・滝兵(現タキヒヨー、一七五一年宝暦元年創業)の五代目を継承。
一九二六年(大正十五年)には創業地(江南市)に滝実業学校(現滝学園)を創設するなど、多方面に活躍した近代名古屋を代表する財界人です。
蒲郡市は自然も豊かで温暖な地であることから、縄文・弥生時代から人が居住し、古代史にも周辺の地名が登場。既に集落を形成していた歴史的な地域です。
平安時代に三河国司を務めた藤原俊成が当地の基盤を築き、源平時代には熊野との間に海上交通も栄えた要地。
以後も多くの貴族や武士が当地に関与し、戦国時代になると松平氏、今川氏等が攻防を繰り広げました。。
江戸時代には、形原藩、吉田藩、岡崎藩等が統治に関わるなど、古くからの寺社仏閣が多い地域です。因みに、現在の市域の多くは旗本・寺社領だったと言われています。
ご本尊は本四国六十一番札所香園寺のご本尊子安大師の分身。女人、子供の守り本尊として信仰を集めています。
四十六番は弘法大師像近くにある奥之院です。
ご本尊(四十五番)子安大師
ご本尊(四十六番)毘沙門天、准胆(?)観音、不動明王
ご詠歌 たかきより あまねくてらす みひかりの 大師のめぐみ いとあらたなり
光昌稲荷
四十五・四十六番から乃木山を下り、再び国道二十三号線を西に向かって約二キロメートル進むと、三河三谷駅南側、八劔神社のある集落の中に四十七番、海平山光昌寺があります。曹洞宗のお寺です。
一〇九六年(永長元年)開創の古刹ですが、当初は天台宗だったそうです。度重なる兵火の末に、曹洞宗に改宗したそうです。
本堂は一九二六年(大正十五年)に総欅(けやき)柱で再建。ご本尊は丈約八十センチの釈迦牟尼仏です。
本堂の横には鳥居の朱色が鮮やかな光昌稲荷。参道には寺院には珍しい幟立石もあり、神仏習合の色濃い境内です。
四十八番は、山門を入った右側の弘法堂です。
ご本尊(四十七番)釈迦牟尼仏
ご本尊(四十八番)弘法大師
ご詠歌 こえのみず にごれどすめど へだてなく だいひのつきの てらさぬはなしる
百八十人分の椅子席
四十七・四十八番から蒲郡市街地を西に向かいます。
善応寺に向かう途中、竹島と蒲郡ホテルを横目に進みます。一九三四年(明治四十五年)三河湾の景勝地である竹島と桟橋で繋がる対岸部に料理旅館「常盤間」が創業し、当時の文豪や政財界人から人気を博しました。
一九三四年(昭和九年)には竹島対岸の小高い山に「蒲郡ホテル」が建築され、現在も国の近代化産業遺産に認定されており、愛知県三河地方を代表する歴史的建築物です。
約三キロメートル進むと、蒲郡駅の北側の市街地の中にあるのが四十九番、巖松山善応寺 。浄土宗西山深草派 のお寺です。
開創は一四五九年(長禄三年) 、慶順和尚が開創しました。
江戸時代から約二百五十年建っていた木造本堂を一九六一年(昭和三十六年)に鉄筋コンクリート造りで再建。当時としては珍しかったでしょうが、本堂内は百八十人分の椅子席が並びます。高齢者にはありがたいご配慮です。
その当時の蒲郡市は温泉客や観光客の最盛期。市街地、繁華街の真ん中にある当寺の新築された本堂も、参拝客で賑わったことでしょう。
五十番は本堂内左側にある厳松殿 。
ご本尊(四十九番)阿弥陀如来
ご本尊(五十番)観世音仏
ご詠歌 こえのみず にごれどすめど へだてなく だいひのつきの てらさぬはなし
形原城と形原松平氏
来月はさらに西に進んで形原温泉に向かいます。
形原城、形原松平氏縁(ゆかり)の実相院、利生院に向かいます。乞ご期待。