【第217号】三河新四国八十八ヶ所霊場7

皆さん、こんにちは。いよいよ夏になりました。今年も猛暑になりそうです。コロナにも気をつけて、くれぐれもご自愛ください。

     
今年のかわら版は 三河新四国八十八ヶ所霊場についてお伝えしています。さて、今月は岡崎城近くの岡崎旧市街に向かいます。

松本観音

二十五・二十六番から旧街道を南下して約二・五キロメートル進むと、旧城下町の町家の中にあるのが二十七番、松本観音浄誓院。浄土宗のお寺です。

開創は一六五〇年(慶安三年)。松本観音の呼称で親しまれている尼寺。本堂前にも松本観音と記された大提灯が吊るされています。

浄誓院のある松本町はかつて花町として栄え、街中にあった当寺は昔から松本観音と呼ばれて親しまれていました。

ご本尊の阿弥陀如来は鎌倉時代初期の運慶作と伝わります。丈約一・五メートル、眼に水晶がはめ込まれている木彫の秘仏です。

戦災で焼失したものの、一九五二年(昭和二十七年)、九品院ご住職が托鉢行で再建。以来、九品院ご住職が当寺の住職を兼ねているそうです。

二十八番は寺内にある松本観音です。

ご本尊(二十七番)阿弥陀如来

ご本尊(二十八番)十一面観世音

ご詠歌 清らけき 誓いの船を まつもとの 仏あわれと みそなわすなり

源義経と浄瑠璃姫

二十七・二十八番から約三キロメートル。再び旧街道を南下し、岡崎城を右側に眺めながら名鉄名古屋本線を越えて左に曲がり、六所神社に隣接する二十九番、 金實山安心院。曹洞宗のお寺です。

当寺の前身は 源義経建立の妙大寺。義経がまだ牛若丸の頃、奥州下向の折に知己となった三河国矢作宿の浄瑠璃姫の菩提を弔うために寿永年間(十二世紀末)に建てたと伝わります。

兵火で荒廃したものの、一四三九年、六名影山城主(岡崎市)の城主であった成瀬国平が再興し、安心院として開山しました。成瀬氏はのちに犬山城主となります。

ご本尊は源義経が日夜拝んでいたと言われる丈約二十センチの十一面観世音の木彫座像です。

三十番は、本堂左に祀る金峯殿です。

ご本尊(二十九番)十一面観世音

ご本尊(三十番)千体地蔵尊

ご詠歌 みめぐみに だかれやすけき 心こそ かね宝にも まさりこそすれ

千人塚

二十九・三十番から約一キロメートル東に進むと、岡崎市内を一望できる小高い山の上にあるのが三十一番、萬燈山吉祥院。真言宗醍醐派のお寺です。

この山は絵女房山と呼ばれる古戦場跡。古くから地元の人達も立ち入らない山でしたが、毎年万灯を掲げて戦で亡くなった武士たちを供養。いつしか萬燈山と呼ばれるようになりました。

一九〇五年、英照法印阿闍梨が入山。散在していた武士の骨を集めて千人塚築き、万灯を焚いて加持祈祷、供養を続けたところ、やがて山の霊気も消え、一九〇九年(明治四十二年)に開山。

加持祈祷の霊験は評判となり、遠方からも信者が集まる心通霊神根本修験道場として今日に至っています。

山は標高約五十メートル、石段を登っていくと樹木に囲まれた急な参道には石仏が点在しています。

三十二番は山内にある萬燈山大師堂です。

ご本尊(三十一番)不動明王

ご本尊(三十二番)弘法大師

ご詠歌 寺の名も 萬燈山とたたへしを きけばたのもし のりのよろこび

身代り片目不動明王

三十一・三十二番から国道一号線を南東方向に約十キロメートル、旧東海道五十三次のひとつ藤川宿にあるのが三十三番、法弘山明星院。

真言宗醍醐派のお寺です。

ご本尊は身代り片目不動明王。当院の前身は熊野那智山の末寺としての草庵です。

その昔、 徳川家康と 鵜殿長持(今川方)が近くの 扇子山で交戦。徳川方が劣勢の中、白衣の武将が現れて加勢し、徳川方が辛勝。しかし、その武将は今川方に片目を射抜かれてしまったそうです。

家康が戦勝のお礼に戦場近くの草庵を訪れると、ご本尊の不動明王の片目がつぶれていたという逸話が伝わります。

草庵はやがて寺となり、当院が開創されたのは一六七五年(延宝三年)。三河一円の修験者の道場として栄えました。

以来、歴代の徳川将軍や各地の大名は、参勤交代の折に当院に立ち寄り、武運長久や道中安全を祈願したそうです。

三十四番は本堂左にある大聖殿、行者堂です。

ご本尊(三十三番)身代り片目不動明王

ご本尊(三十四番)開運厄除け弘法大師、役行者

ご詠歌 一心に 祈る心の尊きを 不動はききて 願かなえん

近藤勇首塚の法蔵寺

来月は旧東海道をさらに進み、本宿の法蔵寺 に向かいます。新選組近藤勇の首塚があることはほとんど知られていません。その後は豊川市に入ります。乞ご期待。