【第216号】三河新四国八十八ヶ所霊場6

皆さん、こんにちは。梅雨の季節になりました。腰痛が気になりますね。くれぐれもご自愛ください。

今年のかわら版は 三河新四国八十八ヶ所霊場についてお伝えしています。さて、今月は豊田市から岡崎市に入ります。

楠木正成の供養寺、雲龍寺

十七・十八番札所から猿投インターに向かい、さらに南下。約五キロメートル進むと十九番、水月山雲龍寺。曹洞宗のお寺です。

開創は 一三〇五年(正平五年)寺伝によれば、楠木正成・正行親子の供養寺として建てられ、当初は多聞寺と呼ばれていたそうですが、その後、足利勢の襲来を恐れて雲龍寺と改称。

場所も当初は挙母城下にありましたが、水害の影響で一七〇六年(宝永三年)に現在地に移転。

山門前には高さ約二メートルの立派な宝篋印塔。一七五二年(宝暦二年)の一揆の犠牲者を供養しているそうです。

二十番は寺内の如意殿。併設されている保育園・幼稚園から子供の声が響きます。

ご本尊(十九番)聖観世音菩薩

ご本尊(二十番)十一面観世音菩薩・如意輪観世音菩薩・延命地蔵菩薩

ご詠歌 わがおもふ 心のうちは むつのかど ただまろかれと いのるなりけり

徳川将軍家菩提寺の大樹寺

さて、いよいよ岡崎市に向かいます。十九・二十番から国道二四八号線を南下、約三十キロメートル進んで岡崎旧市街地入り。二十一番は徳川将軍家菩提寺として知られる成道山大樹寺。 浄土宗のお寺です。

一四七五年(文明七年)、松平氏第四代親忠が建立。

八代広忠の時に今川方の武将となった松平家。今川の人質として育った九代家康(当時は元康)は桶狭間の戦いに出陣。

今川義元が敗れ、大樹寺に逃げ込んだ家康。松平家の墓前で自刃しようとしますが、時の住職登誉上人に諭されて思いとどまります。

その時に登誉上人に賜った「厭離穢土(おんりえど)欣求浄土(ごんぐじょうど)」という言葉は以来、家康の馬印なりました。穢れた世を浄土にして衆生(人々)を救えという意味です。

歴代将軍の等身大の位牌のある位牌堂には、教科書等によく登場する家康の木像があります。

山門は三代将軍家光の造営。本堂から山門を通して岡崎城が直線上に一望できることで有名です。

二十二番は本堂左にある成道殿です。

ご本尊(二十一番)一光千体阿弥陀如来

ご本尊(二十二番)如意輪観音・彌勒菩薩・弘法大師

ご詠歌 雨風の あらき浮き世も たえやすし 慈悲の大樹の かげに宿れば

青年育成道場の九品院

大樹寺門前の道を東へ約一キロメートル、二十三番は荒井山九品院。やはり。浄土宗のお寺です。

一八二八年(文政十一年)、大樹寺から要請を受けて青年僧育成道場として誕生。しかし、大樹寺の塔頭寺院ではありません。

三河新四国の昔の資料には「一日五回の勤行には徳本行者が創始した波念仏が聞こえてきます」と記してありましたが、今も続いているのでしょうか。

市街地の中にありますが、山寺の風情を感じさせる閑静な境内です。

二十四番は、山門内の善光寺堂です。

ご本尊(二十三番)阿弥陀如来

ご本尊(二十四番)一光三尊善光寺如来

ご詠歌 みほとけに くほんのすくい あるなれば よもやもれまじ つみのこのみは

十三仏・千体弘法の持法院

二十三・二十四番から市街地を南下、約二キロメートル行くと二十五番、龍北山持法院。真言宗醍醐派のお寺です。

急な坂を上った高台にあり、一六七三年(延宝元年) の開創です。

ご本尊は 十三仏。釈迦如来、文殊菩薩等の十三仏が四段に鎮座し、全体として一体の十三仏になっている珍しいご本尊です。

二十六番は本堂左側の大師堂 。丈約十五センチの千体弘法が三方の壁にぎっしり祀られています。

また、境内東の小山には本四国八十八ヶ所霊場の石仏が安置されています。

ご本尊(二十五番)十三仏

ご本尊(二十六番)弘法大師

ご詠歌 阿りがたや 持法の庭に 来て見れば 法(のり)の御声の 絶えやらぬなり

源義経ゆかりの安心院

来月はさらに旧道を南下して岡崎城、六所神社 方面に向かいます。二十九番は源義経ゆかりの安心院です。乞ご期待。