【第212号】三河新四国八十八ヶ所霊場2

皆さん、こんにちは。節分も過ぎ、春が待ち遠しい季節になりましたが、まだまだ寒い日が続きます。くれぐれもご自愛ください。

     
今年のかわら版は 三河新四国八十八ヶ所霊場についてお伝えしています。今月は、現在の霊場を復活させた無量寺松山孝昌ご住職ほか、関係者のご尽力についてお伝えします。

旧三河新四国

一六二六年(寛永二年)、浦野上人によって開創された元祖三河新四国霊場。

明治時代以降、廃仏毀釈等の影響で廃れかけていましたが、一九二六年(昭和二年)、本四国霊場会会長であり、お大師様の生誕地、七十五番札所善通寺誕生院貫主、佐伯宥粲猊下から弘法大師像と直伝証が三河新四国霊場に授けられました。復活した霊場のことを旧三河新四国と呼んでおきます。

仏教界も廃仏毀釈後の仏教復興に努めていた時期に当たり、本四国としても全国に「写し」霊場が広がることを期待していたのでしょう。

しかし、一九三一年(昭和五年)以降、満州事変、日中戦争、太平洋戦争と十五年も続く戦争の中で、この地域も戦災に遭い、東南海地震(一九四四年)、三河地震(一九四五年)にも見舞われ、お遍路をする余裕もなく、旧三河新四国は再び賑わいが失われていったそうです。

そして終戦。知多四国八十八ヶ所霊場が賑わいを取り戻す一方、旧三河新四国の巡拝客は絶えがちであったそうです。

現在の三河新四国

一九六〇年(昭和三十五年)、無量寺の松山孝昌住職の夢にお大師様が現れ、寺に三河新四国の納経帳があり、それを基に三河新四国を復活させるように告げられたそうです。

驚いた松山住職が寺の経蔵を探したところ、夢告どおりに三河新四国の納経帳を発見。さっそく松山住職は復興に向けて活動を開始。

その際、松山住職と一緒になって中心的に活動したのが持法院(岡崎市)の山川快憲住職、薬證寺(蒲郡市)の松山祥憲住職。さらには、よく相談に出向いたのが三河の要のお寺であった遍照院(知立市)の横井早鍈住職だったそうです。

松山(孝)住職、山川住職、松山(祥)住職の三人は、宗派の異なるお寺に三河新四国復興に協力を呼びかけたそうです。

とは言え、かつての霊場の中には廃寺になった先もあったほか、三河一円の環境も大きく変化していました。

また、昭和二年に復活した戦前の旧三河新四国霊場は大半が三河鉄道沿線のお寺。つまり、三河鉄道の沿線振興策とも関係していたようです。

ところが、その三河鉄道も昭和十六年に名古屋鉄道に吸収され、名古屋鉄道が三河一円に延伸していました。

そんな環境変化も踏まえ、かつての三河鉄道沿線中心であったお寺以外にも協力を呼びかけ、まさしく三河一円のお寺を説得。五年がかりでようやく各寺の足並みが揃ったそうです。

そして、ついに一九六五年(昭和四十年)、八宗派のお寺による現在の三河新四国霊場会が発足し、晴れて再興の運びとなりました。

一寺院二札所と七地域

一六二六年(寛永二年)、一九二六年(昭和二年)に続いて 一九六五年(昭和四十年)、三度目の誕生を遂げた三河新四国。ふたつの特徴があります。

第一に、ひとつのお寺にふたつの札所が設けられていることです。つまり、 一寺院二札所。

お遍路さんの負担を考えてのことだったのかもしれませんが、四十九ヶ寺を巡拝すると八十八ヶ所をお遍路できるようになっています。

第二に、地域ごとに札所がまとまっており、大きくは七地域です。

三河三弘法で知られる知立・刈谷から始まり、豊田、岡崎、豊川と東に進み、そこから西に向かって蒲郡、西尾、そして最後は碧南と巡ります。

市町村合併で地名が変わっていますので、旧猿投町や旧幡豆町も含まれていますが、現在の市名で言うと、この七地域です。

再興五十五周年

再興後は、折々に出開帳等の周年行事が行われたり、高野山管長や本四国霊場会会長がご出仕されることもあったそうです。

一昨年(平成三十年)から昨年(平成三十一年、令和元年)にかけては、「札所再興五十五周年記念宝印授与三河新四国総開帳」が行われ、通常のご朱印のほかに、記念の宝印が頂戴できたそうです。

知多四国霊場と比べると、三河新四国霊場の地域は、お城等の史跡も多く、自然も変化に富んでいます。

海を眺めながらの知多四国、丘陵地を巡り史跡を訪ねながらの三河新四国。それぞれに味がありますので、どうぞご堪能ください。

三河三弘法

さて、来月からいよいよ三河新四国の紙上遍路のスタートです。まずは開創霊場であり三河三弘法の一番札所でもある知立の遍照院からです。乞ご期待。