皆さん、明けましておめでとうございます。令和二年、「庚子(かのえね)」の年が始まりました。
かわら版では、これまでに 本四国(四国八十八ヶ所霊場)と知多四国八十八ヶ所霊場はご紹介しました。
今年のかわら版は、知多と並んで全国のお遍路ファンに知られる三河新四国八十八ヶ所霊場についてお伝えします。
引き続きご愛顧のほど、よろしくお願い申し上げます
霊場の宝庫
四十七都道府県の中で、お寺の数が最も多いのは愛知県。多くの人が京都府をイメージしますが、実は愛知県が一番です。
最新(二○一六年)統計によれば、愛知県の寺院数は四千五百八十九。二位の大阪府よりも千以上多い断トツトップです。
そのため、霊場もたくさんあります。確認できるだけでも、弘法大師霊場が十三、 観音霊場は十一、そのほかにも法然上人霊場や七福音霊場が複数あり、総数は三十超。愛知県は霊場の宝庫です。
その中でも、全国的に知られているのが知多四国八十八ヶ所霊場と三河新四国八十八ヶ所霊場。
知多四国の開創は 一八二四年(文政七年)、亮山阿闍梨によるものです。
さて、三河新四国はどのような縁起で誕生したのでしょうか。
浦野上人
江戸時代のはじめ頃、西加茂郷に 浦野上人という修行僧がいたそうです。浦野上人は何度も本四国霊場を巡拝し、札所のお砂を持ち帰りました。
浦野上人はそのお砂も活かし、三河一円に本四国霊場の写しを開創することを発心。各地のお寺を十年がかりで説得したそうです。宗派の違うお寺にお大師様の霊場をお願いするのは難儀なことだったと思います。
一六二六年(寛永二年)、浦野上人の努力が実り、三河新四国霊場が誕生。知多四国霊場よりも約二百年古い時代に開創されました。
この浦野上人の縁起は三河新四国八十八ヶ所霊場に言い伝わる伝承。開創時の霊場の全貌等がわかる資料は確認できませんが、該当するお寺の縁起には何某か記録が残っていることと思います。
直伝開創
江戸時代には巡礼するお遍路さんも多かったそうですが、明治時代の廃仏毀釈等の影響もあって徐々に衰退。寂れかけていた三河新四国霊場に転機が訪れます。
一九二六年(昭和二年)、本四国霊場会の会長であり、お大師様の生誕地、七十五番札所の善通寺貫主から弘法大師像と直伝証が三河新四国霊場に授与されました。
時を同じくして、明治中頃から大正、昭和にかけ、廃仏毀釈からの仏教復興、地域振興、観光地興業等を企図して各地に本四国霊場の写しを開創する動きが広がりました。
例えば、覚王山八十八ヶ所霊場も開創は一九〇四年(明治四十三年)です。
おそらく、善通寺等の本四国霊場関係者、あるいは高野山関係者も、各地に写しが開創されることを歓迎したのでしょう。
そのひとつの手法として、本四国霊場から直伝証を授与するということが行われたようです。
しかも、三河新四国霊場は江戸時代から始まった歴史もあり、本四国霊場としては直伝証を授与するのに一層相応しい写しでした。
三河新四国霊場が開創される直前の一九二五年(大正十四年)、やはり善通寺からの直伝証を契機にして知多四国直伝弘法霊場が開創されました。これは知多四国八十八ヶ所とは別の知多四国直伝霊場と言われています。
三河鉄道
さらに、この頃の各地の写し霊場開創の動きは、当時普及・延伸されつつあった鉄道の沿線振興策とも密接に関係していたようです。
三河新四国の場合、一九一四年(大正三年)開業の三河鉄道との関係が深かったようです。
三河鉄道は最終的に蒲郡―足助間まで延伸され、昭和二年開創の三河新四国霊場は全てその沿線のお寺となりました。
因みに、その当時の札所を示した地図が、現在の十九番札所雲龍寺(豊田市)本堂に掲げられています。なお、その時の雲竜寺は七十六番札所でした。
松本孝昌住職
雲龍寺の札所番号が変わっていることからわかるように、三河新四国霊場にはさらに転機が訪れます。
その転機は、現在の六十一番無量寺の松本孝昌住職ほか、何人かのご住職のご尽力によるものです。
来月はその経緯をご紹介します。乞ご期待。