【第209号】実録・覚王山日泰寺縁起11

皆さん、こんにちは。晩秋の季節。寒さが増してきました。くれぐれもご自愛ください。

実録・覚王山日泰寺縁起をお伝えしている今年のかわら版。ご真骨(本物と認定されてい仏舎利)がいよいよ名古屋に奉遷されます。

名古屋奉遷

一九〇二年(明治三十五年)十月二十二日、会長不在のまま、吉田禄在、小栗富治郎、服部小十郎の副会長三名体制で発足した日本大菩提会愛知協賛会。

ご真骨を名古屋に奉遷する日を十一月十五日、仮奉安所は門前町(大須)の万松寺に決定しました。

万松寺は織田信長が父信秀の葬儀の際、位牌に抹香を投げつけた史実で有名な古刹。徳川家康も人質として三年間を過ごしたそうです。

当日は名古屋から数百名の僧侶が京都に出向き、ご真骨を奉迎。特別列車で京都を出発し、名古屋に午前十一時に到着。

市内の家々が仏旗と大菩提の文字を記した軒燈を掲げ、万松寺までの奉迎行列は長さ数キロ。

その荘厳さは、大阪、京都の奉迎行列の比ではなく、未曾有の大盛況。沿道は数十万人で埋まり、当時の新聞は皇太子のご成婚記念行列に匹敵すると報じました。

多くの宗派の管長や僧侶に加え、タイ国を代表して駐日公使ラーチャー・ヌプラバーンも行列に参加しました。

覚王山日暹寺(にっせんじ)

ご真骨が万松寺に仮奉安された後、いよいよ覚王殿建設が本格化するはずでした。ところが、関係者の目論見ははずれ、建設資金の寄付がなかなか集まりません。

いとう呉服店(後の松坂屋)伊藤次郎左衛門、味噌・醤油で成功した奥田正香(後の名古屋市長)、材木商で衆議院議員も務めた鈴木摠兵衛等の有力者も乗り気ではありません。

寄付が集まらない時には私財を投じると言っていた吉田禄在、服部小十郎、小栗富治郎、野村朗も約束を果たしません。

候補地(田代村、千種村、御器所村、広路村、小幡村、弥富村)同士も対立。おまけに、日露戦争直前の世相は戦時ムード。ご真骨に対する関心も薄れつつありました。

この状況に業を煮やした駐タイ公使稲垣満次郎は帰国して、自ら調整に乗り出しました。

稲垣は、日タイ両国友好のために覚王山日暹寺(にっせんじ)という新しい寺を田代村に創建し、その一角に奉安塔を設置するという現実的な構想を提案。当時のタイの国名はシャム(暹羅)であったため、当初の寺名は日泰寺ではなく日暹寺です。

稲垣に呼応し、日置黙仙が各宗派を説得。一九〇三年(明治三十六年)十月五日、日置の説得に応じた二十三宗派管長が日暹寺創建請願書を内務省に提出しました。

  
十月十二日、内務省から「無宗派各宗総本山」として「覚王山日暹寺」設立の認可が出ました。

初代住職に決まった天台座主吉田源応の意向により、正式な本堂、奉安塔建設は後にして、まずは最低限の仮本堂と庫裡で創建。そこにご真骨を仮奉安することとなり、建設費二万円は加藤慶二等の有力者たちが寄進。
建設に際し、日置が斎主を務める可睡斎(かすいさい)の雲水たちも応援に来名。可睡斎は静岡県袋井市にある曹洞宗の名刹です。

雲水や村人の努力によって、一九〇四年(明治三十七年)十一月、仮本旗仏堂、玄関書院が落成しました。

十一月十五日、ご真骨は万松寺から田代村へ奉遷され、タイ国王から贈られた金銅仏とともに日暹寺に安置。

ご真骨が日本に来て四年、名古屋に来て二年。ようやく最終奉安場所に落ち着きました。

しかし、その後も寄付は集まらず、堂宇等の建設はゆっくり進みました。

奉安塔は一九一四年(大正三年)十一月十五日に地鎮祭、翌年起工し、一九一八年(大正七年)六月に完成。落慶法要の後、六月十五日にご真骨が奉安塔に納められました。

一八九八年、ピプラーワーでご真骨が発見されて二十年、一九〇〇年に日本に迎えて十八年 、一九〇二年に名古屋に迎えて十六年、一九〇四年に田代村に迎えて十四年の歳月が過ぎていました。

迦葉尊者と阿難尊者

その間に、日暹寺周辺には 四国霊場の写しが作られました。

一九〇九年(明治四十二年)、山下圓救師、伊藤萬蔵、花木助次郎、奥村新兵衛による勧進帳から始まったそうです。

東山名勝という当時の書物の中に「四国八十八ヶ所は当山境内に於ける呼物とも謂うべき」との記述があることから、四国霊場の写しは参拝客の観光のために計画的に設置されたことが想像できます。

次回は実録・覚王山日泰寺縁起、総集編です。山門を護る御尊像は仁王像ではなく、迦葉尊者と阿難尊者です。乞ご期待。