皆さん、こんにちは。今年は台風が多いですね。朝晩も冷える日が出てきます。くれぐれもご自愛ください。
今年のかわら版は 実録・覚王山日泰寺縁起をお伝えしている今年のかわら版。いよいよご真骨(世界的に本物との認定されている仏舎利)奉安地として名古屋が浮上します。
吉田禄在
なかなか決まらない 覚王殿の建設地。一九〇二年(明治三十五年)年初の時点では名古屋は全く想定外。東京、京都、遠州三方ヶ原、奈良が候補に挙がっていました。
仏舎利分与を主導した大谷派の実力者石川舜台は、三菱ヶ原と呼ばれていた現在の東京駅周辺を想定し、その周りに各宗派の寺務所を配置する構想を抱いていたといわれています。しかし、石川は一九〇二年、宗派内の事情で東本願寺を離れたことから、以後、建設地決定は迷走します。
こうした中、新たな候補地が浮上します。覚王殿建設地が決まらないとの報道がなされる中、名古屋の吉田禄在が中心になって誘致運動を開始。
三月、名古屋市長青山朗、名古屋米穀取引所理事長吉田禄在、酒造業小栗富治郎、木材商で名古屋市会議長服部小十郎、名古屋通信社主長谷川百太郎等の有力者による御遺形奉安置選定期成同盟会を結成。
吉田は元尾張藩士。実務能力を見込まれて明治政府に登用され、愛知県第一区長(後の名古屋市長)に任命されました。その後は衆議院議員となり、名古屋港築港、東海道線誘致、名古屋駅建設、広小路建設など、名古屋の近代化に邁進しました。吉田の墓所は日泰寺にあります。
吉田は、大日本菩提会(帝国仏教会)の九人の建設地選定委員に対し、「建設費五十万円確保は容易、ご真骨の日本奉遷までに負った大日本菩提会の負債も支払う、寄付が集まらない場合は吉田、服部、野村朗等が私財を投じて負担する」と明言。太っ腹です。名古屋が一気に有力候補地に浮上しました。
加藤慶二
期成同盟会は、名古屋が東京と京都の中間に位置し、中京とも呼ばれ、古来仏教有縁(うえん)の地であり、各宗派の別院、関係寺院も揃い、寺院数三万五千、仏教信者二百万人、経済活動も盛んであることをアピールしました
今でも、愛知県は四十七都道府県の中で寺院数一位。断トツです。
その時点での有力候補地は、田代村、千種村、御器所村、広路村、小幡村、弥富村の六ヶ所。
最有力は自然豊かな丘陵地の田代村。最有力であった理由はふたつ。ひとつは寄進の規模です。
時の田代村村長は加藤慶二。自らの私財を投じ、有志の寄進も募り、何と十万坪以上の土地、二百万円超の寄付金を確保しました。
もうひとつは仏教有縁の地であったことです。田代村は、東西に走る法六字街道、南北に走る四観音道という二つの参拝道の交差点。
とくに四観音道は尾張四観音と関係する重要な参拝道でした。尾張四観音は、笠寺観音(南区)、荒子観音(中川区)、竜泉寺観音(守山区)、甚目寺観音(海部郡)。徳川家康が名古屋城築城の際、城下町鬼門の方角に位置する四観音を名古屋城鎮護の観音と定めたことが始まりです。
また、建設予定地からはお釈迦さまの寝姿に似ている鈴鹿連峰釈迦ヶ岳も望めることから、ご真骨奉安には最適との評判でした。
沖守固と青山朗
期成同盟会の動きに愛知県知事沖守固(おきもりかた)と名古屋市長青山朗も呼応。大日本菩提会に覚王殿誘致の要請書簡を送付。駐タイ公使稲垣満次郎、領事外山義文
沖守固元鳥取藩士。明治維新後、岩倉使節団に随行。自費で英国にとどまり、留学生活を送りました。帰国後、内務省や多くの県に赴任しました。
青山朗元は元尾張藩士。明治維新後は軍人になり、退役後に武揚学校(現在の明和高校)校長を務めていましたが、推されて市長に就任しました。
ふたりとも、奇しくも一九一二年(大正元年)に逝去。覚王殿建設、日泰寺創建を見届けてのことでした。
決戦!建仁寺
地元有力者、知事・市長、駐タイ公使・領事の支持も得て、名古屋はいよいよ有力になりましたが、まだ予断を許しません。いよいよ、京都建仁寺 で建設地最終決定の会議が開かれます。詳しくは次回。乞ご期待。