皆さん、こんにちは。夏本番ですね。熱中症や熱射病にならないよう、くれぐれもご自愛ください。
今年のかわら版は 実録覚王山日泰寺縁起をお伝えしています。いよいよご真骨(世界的に本物と認められている仏舎利)が京都に到着します。
苦難の海路、情勢激変
一九〇〇年(明治三十三年)六月十九日、タイのチュラロンコン国王から仏舎利を拝受し、大谷光演正使率いる奉迎使節団は、ドイツ商船マーラット号で帰国の途につきます。
出航二日後の 二十一日、難破が懸念されるほどの激しい嵐に遭遇。
使節団一行は、かつて嵐の中を遣唐使として渡海した最澄や空海、五度の難破を乗り越えて来日した鑑真等、先人の苦難に自らを重ね合わせたと伝わります。
二十四日、シンガポールに入港し、数日間滞在。三十日、使節団はモルタ号に乗船して出航します。七月六日、香港に入港すると日本大菩提会(六月十一日に帝国仏教会から改組)から至急電。その後の上海寄港を止めるようにとの指示です。
中国で列強諸国に反発する義和団の反乱が拡大。上海も危険であるとの情報でした。使節団は上海に向かうモルタ号を下船。七日、香港から長崎に向かうロヒラ号に乗り換えて出航。十日、長崎の外海に到達しました。
長崎晧台寺
十一日早朝、外海に停泊するロヒラ号に出迎えの小汽船が到着。
使節団は小汽船に乗り換えて長崎の大波止(おおはと)港にご真骨とともに上陸。使命を果たしました。
港では花火が打ち上げられ、大群衆が出迎え。地元の鎮西新聞は「 仏骨物語」という連載記事を掲載。当時の関心の高さが伺えます。
上陸した使節団は曹洞宗の晧台寺(こうたいじ)」に向かいました。長崎三大寺(皓台寺、本蓮寺、大音寺)のひとつです。晧台寺には九州各地から僧侶や信徒が集まっていました。
十二日から十四日にかけて、各宗派によるご真骨の法要が営まれました。
晧台寺の住職は名古屋出身の金峰玉仙(きんぽうぎょくせん)。歴代住職の中でも最も長く在職し「重興」として尊敬されています。ご真骨が初めて日本で仮安置された寺の住職の出身地・名古屋に、最終的に奉安されることになるのも奇縁です。
十五日、仏舎利と使節団は長崎を発って列車で門司に向かいました。
諫早、博多、小倉など、停車駅には近隣寺院の僧侶や信徒が集まり、大歓迎。夕刻、門司から馬関丸に乗船。十六日未明、徳山へ到着。徳山からは鉄道で神戸に向かいました。
五月二十三日に海路で神戸を発って約二ヶ月、七月十六日夕方、使節団は鉄路で神戸に戻ってきました。
四天王寺、東本願寺、妙法院
使節団は神戸で一泊し、 十七日 、列車で大阪入り。ご真骨を鳳輿に乗せ、各宗派の僧侶や信徒、関係団体が行列を整えて梅田駅から御堂筋を南下して 四天王寺 に向かいました。行列には駐日タイ公使 ピヤ・リチロング・オナチェット も加わり、沿道は歓迎の人で埋め尽くされました。
十八日 、四天王寺で終日拝迎式が行われ、参拝者は数万人に及びました。
十九日、ご真骨を納めて赤地大和錦で覆った聖櫃を奉じ、使節団は天王寺駅、梅田駅を経て、午前九時十七分に京都七条駅に到着。
百一発の花火が打ち上げられ、各寺院の梵鐘が鳴り響き、国旗や仏旗を振る群衆をかき分け、聖櫃は 東本願寺に入り、阿弥陀堂を経て大師堂内陣に安置されました。
午後一時、仮奉安所に定められていた 東山妙法院に向かう大行列が東本願寺を出発しました。
東山妙法院は貴族や皇族の子弟が歴代住持を務める別格寺院「門跡」のひとつ。青蓮院、三千院とともに台三門跡 天と称される名門寺院。
東本願寺から妙法院に至る約三キロの沿道には、露店が立ち並び、大群衆を規制する竹矢来が設置され、三間(約五・五メートル)おきに巡査が立哨する物々しさ。
夏も盛り。暑さ対策として、行路頭上に白木綿の日よけが延々と張られていたそうです。
行列は、先払い、天童子を先頭に、各宗派の管長、僧侶団、タイ公使、奉迎使節団と続き、その後ろには信徒、門徒が連なりました。
京都市内各寺院が打ち鳴らす梵鐘と人々が唱える念仏、お題目等が響く中、午後二時五十五分に行列の先頭が妙法院に到着した時に、行列の末尾はまだ東本願寺を出発できないほどの大行列だったそうです。
奉安地選定委員会
さて、いよいよ の建設場所を巡って騒動が始まります。なかなか決定できない仏教界。 奉安地選定委員会 を設置します。乞ご期待。