皆さん、こんにちは。いよいよ春本番。平成最後の月となりました。季節の変わり目です。くれぐれもご自愛ください。
今年は 実録覚王山日泰寺縁起をお伝えしています。世界的に本物と認められている仏舎利(お釈迦さまのご真骨)がなぜ日泰寺に祀られたのか。その歴史です。
稲垣満次郎
一八九八年(明治三十一年)、インドとネパールの国境近く、ピプラーワーという場所で本物の仏舎利(お釈迦さまの骨)が発見されました。
翌一八九九年(明治三十二年)、仏舎利は 仏教国のタイ(当時はシャム)。の チュラロンコン国王に寄贈され、タイ国民は歓喜してこれを迎えました。
チュラロンコン国王 は寄贈された仏舎利を分骨し、同じ仏教国のセイロン(現在のスリランカ)、ビルマ(同ミャンマー)にも寄贈しました。
タイでのこの出来事を注視していた日本人がいました。初代駐タイ公使、稲垣満次郎です。
稲垣は肥前(長崎県)平戸藩士の家に生まれ、維新後に日本のアジア外交策を説く「東方策」という論文を発表して注目を集めていた外交官。
一八九七年(明治三十年)、日タイ修好条約締結に伴ってバンコクに日本公使館が設置され、稲垣が初代公使に抜擢され、着任していました。
当時のアジアでは日本とタイは数少ない独立国。稲垣は両国の友好関係が深まれば、欧米列強のアジア進出の歯止めになると考えていたようです。
一九〇〇年(明治三十三年)一月二十七日、稲垣はタイ外相テーワウォン・ワロパカーン親王に日本への仏舎利分骨を願い出る書簡を送りました。
テーワウォン親王はチュラロンコン国王の弟。条約締結交渉以来、稲垣とは親しい関係にあったそうです。
二月一日、早くも親王から稲垣に返書が届き、二つのことが書かれていました。
ひとつは、チュラロンコン国王は分骨を認め、日本からの仏舎利奉迎使を受け入れること。
もうひとつは、この分骨は日本仏教界全体に対するものであること。日本仏教界が宗派の垣根を越えて協力することを望んでいました。
二月十四日 、稲垣は日本の青木周蔵外相と各宗派管長宛に経緯を伝える書簡を送り、タイ国王から仏舎利を拝受する奉迎使節団の覇権を要請しました。
稲垣はこの時、自分を公使に任命した大隈重信前外相にも書簡を送付。以後、大隈は稲垣の動きを側面支援し、日泰寺創建時には木材を寄付しています。
仏教復興
ところで、その当時の日本の仏教界はどんな様子だったのでしょうか。一八六八年(明治元年)、神仏判然令が発布され、廃仏毀釈が始まりました。福沢諭吉は自著の中で「維新の初めに廃仏の議論を聞きて僧侶の狼狽甚だし」と記しています。
そうした動きに対して、各宗派は対策に乗り出し、最も迅速だったのは東西本願寺。金策に苦しむ明治政府に資金を融通して懐柔しました。
また、各宗派は欧米諸国に使節団や留学生を派遣し、欧米宗教事情を参考にして日本仏教の改革と復興を企図。政府に数々の建白書や論文を提出しました。
こうした努力もあって、一八七五年(明治八年 )には信教の自由保障の口達 が発布され、信教の自由が確立。
それ以降、各宗派は教育機関等を整備。 一八九六年(明治二十九年)、東本願寺の 真宗大学(現在の 大谷大学)開学。 一九〇〇年(明治三十三年)には 帝国仏教会が組織されました。
ピプラーワーで仏舎利が発見され、日本への分骨が決まったのはまさにこの頃。当時の仏教界にとっては 仏教復興に寄与する朗報でした。
石川舜台
稲垣の要請に強い関心を示し、いち早く呼応したのは、東本願寺(浄土真宗大谷派)の実力者、石川舜台参務でした。
来月は仏舎利奉迎使節団が結成される経緯をお伝えします。乞ご期待。