【第200号】実録・覚王山日泰寺縁起2

皆さん、こんにちは。春が待ち遠しい季節ですが、寒い日が続きます。くれぐれもご自愛ください。
弘法さんかわら版は二〇〇号になりました。ご愛顧ありがとうございます。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

さて、覚王山日泰寺縁起をお伝えしている今年のかわら版。世界的に本物と認められている仏舎利(お釈迦さまのご真骨)がなぜ日泰寺に祀られたのか。その歴史です。

八大聖地

インド北部のお釈迦さま縁(ゆかり)の地は聖地となっています。
生誕地はルンビニー覚りを開いた場所はブッダガヤー覚りの後に初めて説法した地がサーナルート、涅槃(ねはん)に入った(亡くなった)場所のクシナガラが四大聖地。

さらに、修業で籠もった霊鷲山(りょうじゅせん)のあるラージャグリハ、お釈迦さまが模範的な都市として一目置いたヴァイシャーリー、修業場所として信者が寄進してくれた祇園精舎(寺院)の所在地シュラーヴァスティ、昇天伝説のあるサンカーシャを加えると八大聖地。

このうち生誕地のルンビニーは、お釈迦さまの出身であるシャークヤ(釈迦)国の都カピラヴァストゥの近くです。
お釈迦さまは亡くなった後に荼毘に付され、遺骨(仏舎利)はお釈迦さまに帰依していた八つの国(部族)に分けられたと伝わっています。

当然、シャークヤ国にも分骨され、仏舎利を祀った場所がカピラヴァストゥと言われています。都ですから、当然です。

ところが、カピラヴァストゥの場所は考古学的には今なお論争になっていますが、仏舎利が発見されたピプラーワーこそがカピラヴァストゥではないかと考える説が有力です。
それにしても、その仏舎利はどのような経緯で発見されたのでしょうか。

ウィリアム・ペッペ

その頃、インドは英国の植民地。ビクトリア女王がインド女王として君臨していました。
インドには多くの英国人が駐在していましたが、そのひとりが。植民地の地方行政官でしたが、探検家でもあったと言われています。

当時は欧米諸国で考古学が盛んになっており、研究者や探検家によって古代文明のあった地域の探検や発掘が行われていました。映画インディ・ジョーンズのような世界ですね。

英国政府も植民地政策の一環として、一八六二年に考古調査局を設置して遺跡の発掘を奨励。ペッペもその政府の方針に沿って、自分の広大な所有地(管理地)を調査していました。

一八九八年(明治三十一年)、そのペッペがネパール国境に近いピプラーワー 、という場所で仏舎利を発見するのです。

ピプラーワーはお釈迦さまが生まれたルンビニーという場所から西南方向に約三十キロメートル。
ペッペが以前から気になっていた小高い丘。不自然な形であったため、何かの遺跡であろうと考え、一八九七年(明治三十年)春、発掘を開始します。

丘を掘り下げていくと、煉瓦(れんが)造りの墓のような遺構が現れました。表土を取り除くと、全貌は直径三十五メートル余の人造の塚であることが判明。塚の中心に向かって、多数の煉瓦が漆喰(しっくい)で幾重にも積み重ねられていました。

一八九八年(明治三十一年)一月、遺構の頂上から三メートルほど掘り下げたところで石造りの瓶を発見。瓶の中には珠玉、水晶、黄金の装飾品が納められていました。

遺構の中には円形の空間が造られており、その中は土とアショカ王、時代の特色を示す煉瓦で固められていました。アショカ王はお釈迦さま没後二百年後にインドを統一。仏教を篤く敬った王です。
そこからさらに五メートル掘り下げると、大きな石板が出現。石板は棺(ひつぎ)の蓋でした。

歴史的発見

さこの棺の中から、いよいよ仏舎利(お釈迦さまのご真骨)発見されます。そしてそれは、お釈迦さまが実在の人物であったことが認識される契機となる歴史的発見となります。詳しくは来月。乞ご期待。