皆さん、こんにちは。梅雨の季節になりました。神経痛も気になります。くれぐれもご自愛ください。今年のかわら版は知多八十八ヶ所霊場についてお伝えしています。今月は阿久比町の十四番札所からです。
行者堂
十三番札所を出て阿久比川沿いに西に〇・五キロメートル進むと、十四番札所、円通山興昌寺です。
一五六〇年、桶狭間の戦いに敗れた今川勢の家臣、岡戸祢宜左衛門(ねぎざえもん)がこの地(福住)に残り、緒川(東浦町)の乾坤院から和尚を迎えて開山させたそうです。
山門の左にあるのは行者堂。知多四国霊場の三開山のひとり、岡戸半蔵の行者像を祀っています。美浜町の禅林寺にも半蔵の墓所とともに行者堂があります。
ご本尊 華厳釈迦牟尼仏
ご詠歌 法の風 福住わたる興昌寺 末の世までも 利益残せり
菅原道真の孫
さらに西進して阿久比川と名鉄河和線を越え、坂部駅西側の集落の中にあるのが十五番札所、龍渓山洞雲院。十四番から一・四キロメートルです。
平安時代の九四八年創建の古刹。開基は菅原道真の孫、菅原雅規。
道真が大宰府に配流され、一族も連座。雅規もこの地に流されました。
一時荒廃したものの、一四九三年、雅規の子孫、久松定益が再建。
定益の子、定義が寺の近くに坂部城を築城。その子(定益の孫)俊勝に嫁いだのが徳川家康の母、於大の方。訳あって俊勝と再婚しました(後述)。
境内の杉木立の中に伝通院(於大の方)をはじめ、久松家、松平家の墓所があります。
ご本尊 如意輪観世音菩薩
ご詠歌 春の日は 梅が谷間に 輝きて 久松寺に 晴るる淡雲
伝通院於大の方
於大の方は、戦国史に翻弄された一生を送りました。
一五二八年、緒川(東浦町)城主水野忠政と妻・於富の間に誕生。
当時、隣接する三河で勢力を伸ばしていた松平清康(家康の祖父)の求めに応じ、忠政は於富を離縁し、清康に嫁がせました。
その間に生まれたのが松平広忠(家康の父)。忠政は、水野氏と松平氏の関係強化のため、一五四一年、娘・於大も広忠に嫁がせました。
そして一五四三年、岡崎城で広忠と於大の間に生まれたのが竹千代(家康)です。
同年、忠政が逝去。家督を継いだ於大の兄・信元は翌年、松平氏の主君・今川氏と絶縁して織田氏に臣従。
広忠は今川氏との関係を慮り、於大を離縁。於大は、水野氏の支城、刈谷城に移されました。
一五四五年、織田信秀による三河侵攻に際し、広忠は今川氏に加勢を依頼。見返りに竹千代を人質として差し出しました。
一五四七年、信元の意向で於大は阿古居(阿久比)城主・久松俊勝の後妻として再嫁。
俊勝は水野氏の女性を妻に迎えていましたが早逝。俊勝は、水野氏、松平氏双方との関係強化を図り、於大を迎え入れました。
一五四九年、広忠が尾張遠征中に家臣に暗殺されます(森山または守山崩れ)。
於大は俊勝との間に三男三女をもうけましたが、竹千代とも音信を取り続けました。
一五六〇年、桶狭間の戦いで今川義元が討ち取られ、今川氏から離脱した竹千代改め家康は織田信長と同盟。
家康は、俊勝と於大の息子三人(つまり異父弟)に松平姓を与えて家臣とし、於大を母として迎えました。
於大は俊勝の死後、剃髪して伝通院と号します。
一五八四年、小牧・長久手の戦いの後、子の松平定勝を羽柴秀吉の養子にする話が浮上。於大は強く反対して家康に断念させました。
この養子話が成立していたら、以後の豊臣・徳川の歴史はさらに複雑なものになっていたでしょう。
一六〇二年、家康の滞在する京都・伏見城で逝去。七十八歳の生涯でした。
江戸小石川伝通院に埋葬され、墓所は坂部城近くの洞雲院にも建立されました。
開山所と番外札所
さて、名鉄河和線に沿ってさらに南下。阿久比から半田に向かいます。知多四国霊場には八十八の札所のほかに、三つの開山所、七つの番外札所があります。次回は道中二ヶ所目の番外札所にも寄っていきます。乞ご期待。