【第176号】知多八十八ヶ所霊場2(亮山阿闍梨)

皆さん、こんにちは。節分も過ぎ、春が待ち遠しい季節になりましたが、まだまだ寒い日が続きます。くれぐれもご自愛ください。

今年のかわら版は知多八十八ヶ所霊場についてお伝えしています。今月は、霊場を開いた亮山(りょうざん)阿闍梨についてです。

亮山阿闍梨

亮山阿闍梨は、江戸時代後期の一七七二年、尾張藩士、石田徳右衛門の次男として、今の犬山市辺りで生まれました。

子どもの頃に出家し、法性寺(甚目寺町)に入ります。

一八○六年、三十四歳の時に妙楽寺(知多市)に転住。これを機に、亮玄と名乗ります。

知多に移り住んで三年あまり、一八○九年の三月十七日(新暦五月一日)、夢にお大師様が現れました。

「ここ知多は、わが宿縁の地である。よって、この地に八十八ヶ所霊場を開き、有縁(うえん)の衆生(人びと)を済度(さいど)せよ。やがて二人の行者を遣わすので、協力して大業を成し遂げよ」との夢告でした。

目が覚めた亮玄の枕元には、四国八十八ヶ所霊場のお砂が置かれていたと伝えられています。

岡戸半蔵

夢告を受けて霊場開創を決意した亮玄は、翌日、四国八十八ヶ所霊場の巡拝に旅立ちます。

同年に続き、一八一二年、一八一八年と相次いで巡拝し、亮玄は三度のお遍路を重ねますが、二人の行者は現れません。

ところが、翌一八一九年、阿久比出身の岡戸半蔵と出会います。

半蔵は一七五二年、福住(知多市)の農家に生まれました。亮玄の二十歳年上です。

早くに妻子を失った半蔵は、菩提供養の日々を送り、一八一六年には禅林堂(美浜町)に供養塔を建立しました。
それから三年経った一八一九年、半蔵は妙楽寺で亮玄と出会います。

亮玄の大願に感銘した半蔵は、私財を投じて八十八ヶ所霊場の開創に尽力し始めました。
時に、亮玄四十七歳、半蔵六十七歳の時です。

武田安兵衛

亮玄は、四国八十八ヶ所霊場を巡拝中に、高松城下で武田安兵衛と知り合いました。

安兵衛は、一七八八年、讃岐生まれ。亮山より十六歳年下になります。亮玄と半蔵が大願成就に向けて動き出した一八一九年、安兵衛は諸国遍歴の旅に出ました。

翌年、知多を訪れて亮玄と再会。安兵衛はその後も諸国遍歴を続け、一八二三年、再度知多を訪れます。

そこで亮玄とともに半蔵に会った安兵衛は、ふたりの大願に感銘し、協力を約束。ここに半蔵、安兵衛の二人の行者が揃い、お大師様の夢告どおりとなりました。

時に、亮山五十一歳、半蔵七十一歳、安兵衛三十五歳のことです。

妙楽寺・禅林堂・葦航寺

亮玄は決意も新たに亮山と名を改め、翌一八二四年、知多四国八十八ヶ所霊場を定め終わり、札所へお大師様ご尊像を奉安。開眼供養を行いました。発願して十五年目のことでした。

それを見届けるように、同年、半蔵は禅林堂で、翌一八二五年、安兵衛は十王堂(美浜町)で没します。半蔵七十二歳、安兵衛三十六歳でした。

やがて亮山は福生寺(知多市)に隠棲し、一八四七年、七十五歳で入寂。亮山は妙楽寺、半蔵は禅林堂、安兵衛は葦航寺(美浜町)に眠っています。

戦人塚

さて、来月からいよいよ出発です。豊明市の曹源寺が一番札所。桶狭間の戦いの戦死者を弔う戦人塚があります。乞ご期待。