【第169号】四国霊場、紙上遍路の旅19(七十八番仏光山郷照寺・七十九番金華山天皇寺・八十番白牛山國分寺・八十一番綾松山白峰寺

皆さん、こんにちは。いよいよ夏本番。暑さに負けず、頑張りましょう。さて、紙上遍路のかわら版。残すは十一ヶ寺。頑張って打ち通しましょう。今月も元気に出発です。

厄除うたづ大師

七十七番から約七・二キロメートル、七十八番は宇多津町の仏光山(ぶっこうざん)郷照寺(ごうしょうじ)。
開基は行基菩薩。当初は道場寺と称し、ご詠歌にもその寺名が登場します。

お大師様は自らの像を彫り、厄除祈願して奉納。厄除うたづ大師と呼ばれて今でも広く侵攻されています。

宇多津は往事から港町として栄え、理源大師(聖宝)、恵心僧都(源信)、道範阿闍梨など、多くの高僧が来山。

一遍上人が三ヶ月逗留したのを契機に、高松藩初代藩主松平頼重公が寺名を郷照寺に改め、宗派も四国霊場で唯一の時宗としました。

境内からは、瀬戸内海にかかる瀬戸大橋が一望できます。

天皇寺と天皇社

七十八番から約六・六キロメートル、宇多津から坂出に入ると右手の金山(かなやま)中腹にあるのが七十九番、金華山天皇寺。

この地に日本武尊ゆかりの弥蘇場(やそば)と呼ばれる泉があります。お大師様が泉を訪れた際、金山権現が現れ、仏法守護を命じて宝珠を託しました。お大師様は宝珠を嶺に埋め、寺を摩尼珠院と号しました。

保元の乱に敗れた崇徳(すとく)上皇が讃岐に流され、四十六歳で崩御。弥蘇場の泉に仮安置され、白峰山で荼毘にふされたことから、摩尼珠院は天皇寺とも呼ばれるようになります。やがて二条天皇が鎮魂のために天皇社を造営。天皇寺の住職は天皇社の別当に任じられました。

明治政府の廃仏毀釈、神仏分離令によって、摩尼珠院は廃寺、天皇社は白峰宮と改称。その後、末寺の高照院が当地に移って以来、金華山高照院天皇寺と呼ばれ、隣接する白峰宮とともに今日に至っています。

四国最古の梵鐘

七十九番から約八キロメートル、八十番は白牛山(はくぎゅうざん)國分寺。

天平十三年(七四一年)、聖武天皇が国家安穏、五穀豊穣を祈願して、全国六十八ヶ所に国分寺建立を下命。

讃岐國分寺の落慶は天平勝宝八年(七五六年)。寺領二町四方(約五万平方メートル)の大寺院でした。

境内に残る疎石三十三個から推計される創建当時の本堂(金堂)の大きさは奈良唐招提寺の金堂に匹敵。

山門の右手には七重塔の十五個の礎石。京都東寺の五重塔を上回る高さでした。

天正の兵火によって堂宇のほとんどを焼失しましたが、創建当時の梵鐘が現存。四国最古、重さ一・二トン、由来伝説の多い梵鐘です。

頓証寺殿(白峯御陵)

八十番から約七・五キロメートル、八十一番は綾松山(りょうしょうざん)白峯寺(しろみねじ)。

七十九番天皇寺と同様に、崇徳上皇に由来します。

上皇崩御後、二条天皇が天皇社を造営した後も、都では異変が頻発。そのため、崩御後二十六年目に後鳥羽天皇が上皇の霊を祀る廟所として法華堂を建立。現在は頓証寺殿(白峯御陵)と呼ばれています。

現在の高松市と坂出市にまたがる山岳地域は、白峰のほかに、青峰、黒峰、紅(赤)峰、黄峰を含む十以上の峰々から構成され、五色台と呼ばれています。

お大師様の甥、智証大師(円珍)が、瀬戸内海で引き上げた異香、異光を放つ流木で彫った千手観音が本尊として祀られています。

捨身ヶ嶽

残すところ七ヶ寺。来月は、五色台の青峰に建つ八十二番、根来寺から。乞ご期待。