皆さん、こんにちは。梅雨の季節です。ご自愛ください。さて、紙上遍路のかわら版。残すは十五ヶ寺。頑張って打ち通しましょう。今月も元気に出発です。
満濃池
お大師様の幼名は真魚(まお)。七十三番から約二・一キロメートル、七十四番は医王山甲山寺(こうやまじ)。この辺りは真魚の遊び場でした。
壮年になって故郷を訪ね、伽藍の建立地を探していたお大師様。甲山(かぶとやま)近くを歩いていると老翁に遭遇。「ここが聖地なり」との啓示に歓喜し、石で毘沙門天を刻んで安置供養したのが当寺の始まり。
都に戻ったお大師様は満濃池修築の別当(監督)を命じられ当地に赴任。薬師如来を彫って工事の成功を祈願。お大師様を慕う数万人の農民が集まり、修築工事はわずか三か月で完了。
朝廷からの二万貫の褒賞金で堂宇を建立。薬師如来を本尊としました。
誕生院
田園の彼方に見える五重塔を目指し、七十四番から歩くこと約一・五キロメートル。お大師様の生誕地、七十五番は五岳山(ごがくざん)善通寺(ぜんつうじ)。
東院と西院からなる広大な境内。お大師様は西院御影堂の奥殿辺りにあった母玉寄御前(たまよりごぜん)の館で誕生。故に西院は誕生院とも呼ばれます。
唐から帰朝したお大師様は父の屋敷跡に一族佐伯氏の菩提寺を建立。善通(よしみち)という父の名に因んで寺号は善通寺。
背後に香色山(こうしきさん)、筆山(ふでのやま)、我拝師山(がはいしざん)、中山(なかやま)、火上山(ひあげやま)の五山が屏風を立てたように聳えていたことから、山号を五岳山とし、周辺は屏風ヶ浦と呼ばれました。
長安の青龍寺を模して建立された七堂伽藍。境内にはお大師様の産湯の井戸があり、恵果和尚から授かった錫杖も納められています。
★智証大師
七十五番から約三・七キロメートル、七十六番は鶏足山(けいそくざん)金倉寺(こんぞうじ)。
この地はお大師様の甥である智証(ちしょう)大師(生前は円珍)の生誕地。
入唐した円珍は、帰朝後、延暦寺第五代座主を務め、天台宗寺門派(園城寺派)の宗祖となりました。
当寺は、円珍の祖父和気道善(わけみちよし)が建立し、寺号は道善寺(どうぜんじ)としました。
円珍は帰朝後、当寺に滞在し、長安青龍寺に倣った七堂伽藍を建立。
九二八年、醍醐天皇の勅命で寺号を地名の金倉郷(かねぐらごう)に因んで金倉寺(こんぞうじ)に改め、山号は釈迦十大弟子のひとりである迦葉尊者(かしょうそんじゃ)の入定地に因んで鶏足山に改めました。
この頃の当寺は僧坊百三十二を数える大寺院でしたが、天正の兵火等で灰燼に帰した後、高松藩初代藩主松平頼重の庇護で再興されました。
三大師住職
七十六番から約三・七キロメートル、七十七番は桑多山(そうたざん)道隆寺(どうりゅうじ)。
山号のとおり、創建時の寺域周辺は広大な桑畑。絹の生産地だったようです。
領主の和気道隆が桑畑で乳母を弓で誤射。供養のため、桑の木で薬師如来を彫って堂宇を立てたのが寺の縁起。その後、乳母は蘇生したそうです。
道隆の子、朝祐(ちょうゆう)はお大師様から授戒を受け、全財産を投じて七堂伽藍を建立。第二世住職となり、寺号は父の名に因んで道隆寺と称しました。
お大師様の実弟真雅(しんが、法光大師)、甥の円珍(智証大師)、聖宝(しょうぽう、理源大師)という後の三大師が相次いで第三世、四世、五世住職となり、寺は繁栄しました。
捨身ヶ嶽
来月は、境内から瀬戸内海にかかる瀬戸大橋が眺望できる七十八番、郷照寺から。乞ご期待。