【第167号】四国霊場、紙上遍路の旅17(七十番七宝山本山寺・七十一番剣五山弥谷寺・七十二番我拝師山曼荼羅寺・七十三番我拝師山出釈迦寺

皆さん、こんにちは。初夏を感じる季節になりました。さて、紙上遍路のかわら版。残すは十九ヶ寺。頑張って打ち通しましょう。今月も元気に出発です。

一夜建立の寺

同じ境内にある六十八番、六十九番から東北に約四・六キロメートル、前方に五重塔が見えてきます。七十番、七宝山(しっぽうざん)本山寺(もとやまじ)です。

平城天皇の勅願を受け、お大師様が井ノ内村(徳島県)で用材を伐採、財田村(香川県)で製材したうえで運搬し、数日で寺を組み立てた逸話から一夜建立の寺と言われています。

本尊の馬頭観世音菩薩、脇侍の阿弥陀如来と薬師如来はお大師様自らによる一刀三礼の作。

長宗我部元親による天正の兵火の折、軍勢は侵入を拒む住職を斬って堂内に強襲。すると、内陣厨子が開き、阿弥陀如来像が血を流しているのを見た軍勢は、恐れをなして退散。

以来、阿弥陀如来像は太刀(たち)受けの弥陀(みだ)と呼ばれています。

日本三大霊場

七十番から約十二キロメートル。標高三百八十二メートルの弥谷山(いやだにやま)の中腹に立つのが七十一番、剣五山(けんござん)弥谷寺(いやだにじ)。

この辺りからお大師様の生誕地、善通寺に近くなり、幼少時の逸話が伝わっています。

真魚(まお)と称した幼少時に籠って学問をした岩窟は獅子の岩屋と呼ばれ、大師堂の奥に残っています。

開基は行基菩薩。弥谷山の山頂から、阿波、土佐、伊予、讃岐、備前、備中、備後、安芸の八か国が眺望できたことから、行基菩薩が東の峰に阿弥陀如来像、西の峰に釈迦如来像を安置し、蓮華山(れんげざん)八国寺(やこくじ)と命名。三つの峰を擁するため、山は三朶(さんだ)の峰とも呼ばれます。

唐から帰朝したお大師様が参籠した折、天から五柄(ごふり)の剣が降りてきたことに因み、山号寺号を剣五山弥谷寺に改めました。

下北半島の恐山、国東半島の臼杵磨崖仏(うすきまがいぶつ)、そして弥谷山は日本三大霊場。弥谷寺には弥谷信仰、弥谷参りの風習が残っています。

最古の四国霊場

七十一番から約三キロメートル、いよいよお大師様の生誕地である善通寺市入り。七十二番は我拝師山(がはいしざん)曼荼羅寺。

創建は四国霊場で最古の推古四年(五九六年)。お大師様の生家である讃岐領主、佐伯氏の氏寺として建立され、当初は世坂寺(よさかじ)と呼ばれました。

唐から帰朝したお大師様は、亡母・玉依(たまより)御前の菩提を弔うため、長安の青龍寺(恵果和尚から密教の正統を授かった寺)を模して伽藍を整え、持ち帰った両界曼荼羅を奉納して寺号を曼荼羅寺に改めました。
その際に植えた松が直径十八メートル近くに育ちって不老の松と呼ばれていましたが、近年松喰い虫に侵され、平成十四年に惜しくも伐採。

かつての菅笠を二つ伏せたような姿であったことから、今では幹に笠松大師と刻まれ、鎮座しています。
平安時代には、西行法師が二年間逗留し、西行庵を結びました。

捨身ヶ嶽

七十二番から約〇・五キロメートル、徒歩数分で到着するのが七十三番、我拝師山出釈迦寺(しゅつしゃかじ)。
七歳の真魚が衆生救済の請願を立てて崖から捨身。すると、紫雲とともに蓮華に座した釈迦如来が現れ、真魚を抱きとめて救ったという伝説が残っています。

長じてお大師様がこの地に寺を建立。捨身した崖は捨身ヶ嶽と呼ばれ、鎖にすがって百メートルの断崖を登る山頂の行場となっており、稚児大師像が建っています。

善通寺

来月は七十四番に続いてお大師様の生誕地、七十五番の善通寺。乞ご期待。