【第166号】四国霊場、紙上遍路の旅16(六十六番巨鼇山雲辺寺・六十七番小松尾山大興寺・六十八番七宝山神恵院・六十九番七宝山観音寺

皆さん、こんにちは。春真っ盛りですね。さて、紙上遍路のかわら版。残すは二十三ヶ寺。頑張って打ち通しましょう。今月も元気に出発です。

四国高野

六十五番から約二十三キロメートル、四国霊場の中で最も高い標高九一一メートルに立つのが六十六番、巨鼇山(きょごうさん)雲辺寺。

香川県と徳島県の県境の山岳地帯。現在の住所は徳島県ですが、讃岐霊場打ち始めの関所寺です。

雲海に浮かぶ姿に由来したのでしょうか、まさしく雲辺寺。

お大師様十六歳の折、生誕地の善通寺(七十五番)用の木材を探して深山に入り、その風景に心を打たれて堂宇を建設したのが縁起です。

やがて四国坊、四国高野と呼ばれるようになり、阿波、土佐、伊予、讃岐の学僧が集まり、学問道場として隆盛します。

雲辺寺から眼下を望み、四国制覇の野望を語った長宗我部元親を、時の四十八代住職、俊崇坊が諌めた逸話が語り継がれています。

ふたつの大師堂

六十六番から約十二キロメートル下り、仁王門からお大師様お手植えの楠と榧(かや)の老木を横目に石段を登ると六十七番、小松尾山大興寺に到着です。

天平年間に東大寺の末寺として創建。その後、最澄との縁で天台宗となったものの、火災に遭って灰燼に帰した諸堂を空海が再興。真言宗に改宗。

天台十二坊、真言二十四坊を擁し、台密、東密の両道場として栄え、今でも本堂の両側に最澄、空海のふたつの大師堂が立つ珍しい霊場です。

仁王門の金剛力士像は四国最大級。鎌倉仏師として名高い運慶の作です。

地元では、大興寺というよりも、山号に因んで小松尾寺と呼ばれて親しまれています。

宇佐八幡

六十七番から約十一キロメートル、観音寺市に入って財田川を渡ると琴弾山の麓。

その中腹、同じ境内に立つ六十八番と六十九番、七宝山(しっぽうさん)神恵院(じんねいん)と七宝山観音寺。神恵院の山号は琴弾山と言われることもあります。

大宝年間、日証上人がこの山で草庵を結んで修行中、近くの浜で、琴を奏でる翁の乗る船に遭遇。

上人はこの翁が宇佐八幡の化身と感得。船を神船として琴と一緒に山上に揚げて祀り、琴弾八幡宮を創建。

その別当寺(神宮寺)として建立した弥勒帰敬寺(みろくききょうじ)が神恵院、観音寺の起源です。

大同年間、この地を訪れたお大師様が八幡宮の本地仏として阿弥陀如来を描いて本尊とし、七宝山神恵院と改名。

鉱物学や地質学に精通していたお大師様、この境内に瑠璃(るり)、珊瑚、瑪瑙(めのう)などの七宝を埋めて地鎮したことが、山号の由来と伝えられています。

明治維新の神仏分離令により、阿弥陀如来像は西金堂(さいこんどう)に移されました。

一境内二霊場

お大師様は日証上人が引き揚げた船が神功(じんぐう)皇后と縁があり、皇后は観世音の化身と感得。

お大師様は聖観世音菩薩を彫って本尊として、七堂伽藍を建立して観音寺を創建。

室町時代には足利尊氏の子、道尊大政大僧正が四十五年間住職を務め、幕府の庇護を受けて隆盛を誇りました。

一境内二霊場なので、伽藍配置も混然一体。神恵院本堂の前には神恵院と観音寺の大師堂が並んで建っています。

一夜建立

来月はいよいよ七十番台。あと一息ですね。七十番はお大師様がたった一夜で建立したと伝えられる本山寺。乞ご期待。