【第164号】四国霊場、紙上遍路の旅14(五十八番作礼山仙遊寺・五十九番金光山国分寺・六十番石槌山横峰寺・六十一番栴檀山香園寺

皆さん、あけましておめでとうございます。今年も紙上遍路のかわら版。残すは三十五ヶ寺。頑張って打ち通しましょう。では出発。

火伏せ不動尊

皆さん、こんにちは。春が待ち遠しい季節になりました。さて、紙上遍路のかわら版。残すは三十一ヶ寺。頑張って打ち通しましょう。今月も元気に出発です。

お加持の井戸

五十七番から約二・四キロメートル、五十八番は古来より「おされさん」の名で親しまれ、標高約三百メートルの山頂に立つ作礼山(されいざん)仙遊寺。

海から現れた竜女が一刀三礼してご本尊の千手観音を彫ったとの言い伝えから山号は作礼山。

阿坊仙人という僧が四十年参籠後に忽然と姿を消したという伝説に由来して寺号は仙遊寺。

お大師様が巡錫した折、病に苦しむ人々を救うために掘ったお加持の井戸が旧参道の脇にあります。

明治初めの山主は宥蓮(ゆうれん)上人。日本最後の即身成仏として入寂されました。

境内からは、境内から今治市街、瀬戸内海の島々、しまなみ海道が一望できます。

五大尊明王画像

五十八番から約六・五キロメートル、五十九番は金光山(こんこうさん)国分寺。

伊予国府、伊予国分寺の旧跡地。東塔(七重塔)跡には巨大な礎石があり、高さは推定六十メートル。七堂伽藍を構えた大寺院だったようです。

お大師様が長く逗留して自ら五大尊明王画像を描き、弟子・真如も二年間逗留して法華経を書写奉納しています。

藤原純友の乱(九三九年)、源平合戦(一一八四年)、南北朝時代の細川頼之の兵火(一三六四年)、長宗我部元親による天正の兵火(一五七三~九二年)の四度も灰燼に帰し、江戸時代後期に復興されました。

西日本最高峰

五十九番から約二十八キロメートル、六十番は石鎚(鉄)山(いしづちさん)横峰寺(よこみねでら)。

石鎚山は西日本最高峰(標高一九八二メートル)。寺は中腹にあり、四国霊場の中では三番目の高地。かつては遍路ころがしの最難所と言われました。

修験道の祖、役行者(えんのぎょうじゃ)が修行中に蔵王権現を感得したのが創建の縁起。

参籠した行者、石仙(しゃくせん)仙人が桓武天皇の病平癒を祈願成就、星供修法したお大師様の前に蔵王権現が示現するなど、霊験あらたかな逸話が伝承されています。

お大師様の著書「三教指帰(さんごうしいき)」にも、石鎚山で修行した様子が記されています。

子安大師

六十番横峰寺から下山、奥の院白滝不動、大谷池を経て約十キロメートル、六十一番は栴檀山(せんだんざん)香園寺(こうおんじ)。

聖徳太子開基の四国霊場屈指の名刹。太子が父である用明天皇の病気平癒を祈願して建立しました。

天皇から教王院の院号を賜り、行基菩薩も逗留しました。

お大師様が巡錫した折、門前で身重の女性が苦しんでいました。お大師様が栴檀の香を焚いて加持祈祷すると、女性は元気な男子を無事出産。

お大師様は、再び栴檀の香を焚き、安産・子育て・身代わり・女人成仏を祈る「四誓願(しせいがん)」を護摩修法してこの地を霊場としました。

明治三十六年、住職となった山岡瑞園師が子安講を創始。以来、香園寺は「子安弘法」「子安のお大師さん」として親しまれるようになり、子安講の講員は海外にも広がっています。

伊与三島水軍

愛媛県を巡る「菩提の道場」の札所もあと四つ。来月は伊与三島水軍の菩提寺、六十二番、天養山宝寿寺からです。乞ご期待。