【第162号】四国霊場、紙上遍路の旅12(四十九番西山山浄土寺・五十番東山繁多寺・五十一番熊野山石手寺・五十二番瀧雲山太山寺・五十三番須賀山円明寺

皆さん、こんにちは。今年もいよいよあとわずか。くれぐれもご自愛ください。さて、紙上遍路の今年のかわら版。では出発。

空也谷

四十八番から約三・三キロメートル、四十九番は西林山(さいりんざん)浄土寺。四十八番の寺号は西林寺、四十九番の山号は西林山。紛らわしいですね。

浄土寺は空也上人が三年間逗留した場所として知られています。

上人がこの地を去るに当たり、離別を惜しむ村人に懇願され、その姿をとどめるために自ら彫ったと伝えられる木像が残っています。

口から出た念仏が阿弥陀化仏(けぶつ)になって連なる印象深い木像。きっと写真で見たことがあると思います。
空也谷という地名は、村人が上人を慕ってつけた地名です。

一遍上人浄土三部経

空也谷から八幡神社の前を通り、なだらかな坂を登ると五十番、東山繁多寺(はんたじ)の山門が見えてきます。四十九番から約二・四キロメートルです。

松山城、松山市街、瀬戸内海を一望できる高台にあり、風情のある境内。周辺は景観樹林保護地区に指定されています。

一遍上人が逗留して修行し、浄土三部経を奉納したと伝えられています。

天皇家の菩提寺である京都の泉涌寺(せんにゅうじ)と関係が深く、第七世住職は後小松天皇の勅命で着任した泉涌寺第二十六世、快翁和尚。

江戸時代には徳川家の帰依も受け、四代将軍家綱が自身の念持仏としていた歓喜天を祀りました。

右衛門三郎(えもんさぶろう)再来

五十番から約三キロメートル、道中行く手の山裾に見える三重塔が五十一番、熊野山石手寺(いしてじ)です。

門前に着くと、「洗い石」と呼ばれる石橋。別名「渡らずの橋」。お大師様が渡った橋の裏面には経文が刻んであり、お遍路さんは渡ってはいけないそうです。

道後湯築(ゆづき)城主の河野息利の子は生後三年経っても左手が開きません。安養寺の住職が祈祷すると、やっと開いた手の中に「右衛門三郎再来」と記された小石。右衛門三郎はご存じ、四国遍路の元祖です。

この子は右衛門三郎の生まれかわりと言われ、安養寺は石手寺に改められました。

道後温泉の湯治客も混じる境内は賑わい、門前茶店の草餅はお遍路さんに人気。縁起物の寺の投げ米を引いて焼いたのが始まりと言われています。

一夜建立の御堂

五十一番から約十二キロメートル、道後温泉街、松山城下を抜けた先にあるのが五十二番、瀧雲山(りゅううんざん)太山寺(たいさんじ)。

開基は真野長者。沖合の海で暴風雨に遭った長者が信仰していた十一面観音に無事を祈願。

難を逃れた長者は、報恩のために一夜で本堂を建立。「一夜建立の御堂」と呼ばれています。

空也上人像

松山市内の札所はあとひとつ。区切りがいいので足を延ばしましょう。

五十二番から約二・三キロメートル、五十三番は須賀山円明寺(えんみょうじ)。

大正三年、四国遍路をしていた日本研究家のシカゴ大学スタール博士が、本尊阿弥陀如来像の厨子に打ちつけてあった四国遍路最古(一六五〇年)の銅板納札を発見。

奉納者は京都蓮華寺の再興者、平人家次(へいにんいえつぐ)。銅板としては最古のうえ、初めて「遍路」の文字が記されていることでも知られています。

空也上人像

さて、年明けから今治市に入ります。残すは三十五ヶ寺。来年も頑張りましょう。それでは、良い年をお迎えください。