【第160号】四国霊場、紙上遍路の旅10(四十番平城山観自在寺・四十一番稲荷山龍光寺・四十二番一果山仏木寺・四十三番源光山明石寺

皆さん、こんにちは。朝晩は肌寒い日も多くなりました。くれぐれもご自愛ください。さて、紙上遍路の今年のかわら版。では出発。

裏関所

県境を越えて伊予(愛媛県)入り。伊予は「菩提の道場」です。

三十九番から約二十八キロメートル。四十番は平城山(へいじょうざん)観自在寺。

山号からわかるように、平城(へいぜ)天皇の勅命で開創。

弘法大師が一本の霊木から本尊・薬師如来、脇侍・阿弥陀如来と十一面観音菩薩の三尊像を彫り、残木で南無阿弥陀仏の舟形宝判を刻まれた。

この宝判は霊験あらたかで、口(言葉)や眼の不自由な遍路、心臓病を患う遍路が宝判を押すと快癒したという逸話が数多く伝わっています。

阿波の一番札所(霊山寺)から最も遠く、「四国の裏関所」とも呼ばれています。

三間(みま)のお稲荷さん

四十番から四十一番は約四十八キロメートル。海へせり出す急傾斜の山を貫く南伊予路を歩きます。

稲荷山龍光寺は宇和島から北東に二時間ほどの三間平野にあります。

神仏習合の面影が色濃く残り、山門は鳥居、仁王像の代わりに狛犬(こまいぬ)、境内にはお狐さんとお地蔵さんが並んでいます。

弘法大師が、この地で出会った老翁を五穀大明神の化身と悟り、稲荷明神像と本地仏の十一面観音像を彫像して安置。四国霊場の総鎮守として開創しました。

稲荷寺とも呼ばれた龍光寺は、明治維新の廃仏毀釈で稲荷社となったものの、のちに新たに本堂が建立され、「三間のお稲荷さん」として親しまれています。

牛馬の守り仏

四十一番から山沿いの田圃道を約四キロメートル進むと四十二番、一果山(いっかざん)仏木寺(ぶつもくじ)。

弘法大師がこの地で牛を引く老翁と出会い、勧められるままに牛に跨って進むと楠の枝にかかる宝珠を発見。

この宝珠は、弘法大師が唐から帰国する際に有縁の地を求めて三鈷とともに東方の海に向かって投げたもの。

弘法大師はここを霊地と感得し、楠で大日如来像を彫像し、眉間に宝珠を埋めて本尊としました。

寺は牛馬の守り仏の大日さまとして信仰を集め、最近ではペットを含む動物一般の供養寺としても知られています。

補陀落東門

四十二番から歯長(はなが)峠を越えて約十五キロメートル。静寂な山中にたたずむのが四十三番、源光山明石寺です。

修験道と縁が深く、欽明天皇の勅命を受けて円手院正澄(えんしゅいんせいちょう)という行者が開創。

のちに、役行者(えんのぎょうじゃ)から五代目の寿元(じゅげん)という行者が紀州熊野の十二社権現を勧請し、修験道の中心道場としました。

荒廃した寺を再興したのが弘法大師。その後、再び廃れた寺を修復したのは源頼朝。命の恩人である池禅尼(いけのぜんに)の菩提を弔って阿弥陀如来像を奉納。「現光山」を「源光山」に改名。源氏との関係から武士の帰依が篤い寺でした。

神仏習合の影響が強く、明治維新まで住職は別当職と呼ばれていました。

中札所

さて、次は四十四番。ちょうど半分なので中札所と呼ばれます。

しかし、四十三番からの道のりは約八十二キロメートル。三十七番(岩本寺)から三十八番(金剛福寺)の約九十五キロメートルに次ぐ距離です。

今回はここで一服して、四十四番には次回に進みます。乞ご期待。