【第157号】四国霊場、紙上遍路の旅7(二十六番龍頭山金剛寺・二十七番竹林山神峯寺・二十八番法界山大日寺・二十九番摩尼山国分寺・三十番百々山善楽寺

皆さん、こんにちは。いよいよ夏本番。くれぐれもご自愛ください。さて、紙上遍路の今年のかわら版。では出発。

金剛頂寺=西寺=鯨寺

二十五番、津照寺から約五キロメートル。二十六番は龍頭山(りゅうずさん)山金剛頂寺(こんごうちょうじ)です。

室戸岬の西北、土佐湾に突き出した行当(ぎょうどう)岬。硯(すずり)が産出するので硯が浦とも言われる岬の山の上、室戸三山のひとつです。

通称、二十四番最御崎寺(ほつみさきじ)が東寺、二十六番金剛頂寺は西寺と呼ばれます。

お大師様は若い頃に西寺の山中や眼下の洞窟で修業し、虚空蔵求聞持法で覚りを開いたと言われています。

開眼の洞窟、御厨人(みくろど)窟は、先月号でご紹介したとおり、室戸岬東側に史跡がありますが、本当の御厨人窟は行当岬だったとの説も聞かれます。

寺内にはお大師様が背負って歩いた旅壇具(金銅密教法具)等の貴重な史料が保管されています。

西寺は別名、鯨寺。室戸はかつての捕鯨の拠点。西寺の檀家であった高名な捕鯨砲手が、寺内に鯨の供養塔や捕鯨の資料館を建てたことから、鯨寺と呼ばれるようになりました。

土佐の関所と爪彫り薬師

二十六番から約三十キロメートル。険しい山の上にあるのが二十七番、竹林山神峯寺(こうのみねじ)。

真っ縦(まったて)と呼ばれる勾配四十五度の急坂で知られる土佐の関所、遍路ころがし。眼下に紺碧の土佐の海が眺望できます。

三菱財閥の祖、岩崎弥太郎の母が二十キロメートル離れた集落から息子の出世を祈願して神峯寺に日参したそうです。

昭和三十年代、愛知県の水谷繁治さんの妻しづさんが、この山を登る途中で霊験を得て、医師にも見放された脊椎カリエスが奇跡的に完治。お遍路さんの間で有名な実話です。

二十七番から約三十九キロメートル。境内に咲く四季折々の花で親しまれる二十八番、法界山大日寺。

行基作の御本尊、金剛界大日如来坐像は高さ一四五センチメートルの寄せ木造り。四国では最大級です。

お大師様が衆生(人々)の安寧を祈願し、爪で薬師如来を彫ったと言われる楠の霊木「爪彫り薬師」が奥の院に祀られています。

土佐の苔寺と一宮別当寺

二十八番から約八キロメートル、二十九番は摩尼山国分寺。

平安時代にはこの寺の近くに国府が置かれ、土佐日記で有名な紀貫之が赴任。土佐の政治・文化の中心であり、以後も水稲二期作が盛んな農業・経済・交通の要所として栄えました。

お大師様がこの地を巡錫(じゅんしゃく)した際、密教の厄除け奥義「星供(ほしく)の秘法」を勤修。
以後、この寺は星供の根本道場、大師像は星供大師と呼ばれています。

長宗我部、山内の歴代藩主の加護を受け、境内の庭園は見事。杉苔(こけ)が美しく、国分寺は別名、土佐の苔寺とも言われます。

二十九番から約八キロメートル、三十番は百々山(どどざん)善楽寺。

この辺りはかつて神辺郷と呼ばれ、土佐では最も古くから栄えた地域。近くに土佐一宮があり、神仏習合の下、神宮寺も配置。善楽寺は一宮別当寺でもありました。

藩都に近かったことから、明治維新の廃仏毀釈で神宮寺も善楽寺も廃寺の悲運。善楽寺のご本尊は安楽寺、大師像は国分寺に移されました。

しかし、昭和四年に大師像が戻って再興、平成六年にご本尊も戻り、三十番札所として復興。
最近まで明治維新の影響があったことを知ると、歴史を身近に感じます。

よさこい節

いよいよ高知市中心部に向かいます。次はよさこい節に歌われ、純信、お馬の悲恋の寺として知られる三十一番、五台山竹林寺からです。乞ご期待。