【第154号】四国霊場、紙上遍路の旅4(十三番大栗山大日寺・十四番盛寿山常楽寺・十五番薬王山国分寺・十六番光耀山観音寺・十七番瑠璃山井戸寺・十八番母養山恩山寺

皆さん、こんにちは。はや四月。新緑が眩しい季節になりました。紙上遍路の今年のかわら版。それでは出発。

天正の兵火

天正年間に四国統一を狙った土佐の長宗我部元親。阿波、讃岐、伊予まで攻め込み、戦乱は十年に及びました。

この戦乱で、四国八十八か所霊場のうち、阿波十三ヶ寺、讃岐十一ヶ寺、伊予四ヶ寺が罹災。この間の戦災を「天正の兵火」と言います。

天正十三年(一五八五年)、元親は秀吉に降伏し、土佐一国を安堵されました。

戦国の歴史からスタートした今月号。十二番札所から歩くこと約二十七キロメートル。鮎喰(あくい)川を渡ると十三番札所の大栗山大日寺。ご本尊は十一面観世音菩薩です。

天正の兵火で全ての塔堂が罹災したものの、江戸時代に阿波三代藩主の蜂須賀光隆が再建しました。

もともとのご本尊は大日如来。同じ境内に建立された総鎮守一宮の本地仏(神が姿を変えて現れた仏)は十一面観音像。

明治維新の神仏分離令の余波で、現在は十一面観音がご本尊、大日如来は脇仏となっています。

納札

十三番札所から約二キロメートル。四国霊場の中で唯一弥勒菩薩をご本尊とする十四番札所、盛寿山常楽寺です。

やはり天正の兵火で焼失しましたが、江戸時代に再興。一八一八年には現在地の「流水岩の庭」近くに移りました。

十四番札所から八百メートルほど歩くと、十五番札所、薬王山国分寺の山門に到着。

七四一年、仏教に帰依した聖武天皇が勅命により全国六十八ヶ所に国分寺、国分尼寺を建立。奈良の東大寺が総国分寺です。

創建当初は奈良仏教の法相宗でしたが、弘法大師が真言宗に改宗。その後、これまた天正の兵火で灰燼に帰します。
一七四一年に再建された際に曹洞宗に改宗しています。ご本尊は行基作の薬師如来です。

ところで、お遍路さんは札所の本堂と大師堂の納札箱に納札を納めます。

お遍路の回数によって納札の色は異なり、白(一~四回)、緑(五~七回)、赤(八~二十四回)、銀(二十五~四十九回)、金(五十~九十九回)、錦(百回以上)です。

七難即滅、七福即生

十五番札所から一・四キロメートル。十六番札所は光耀(こうよう)山観音寺。ご本尊は千手観世音菩薩です。
寺伝の「観音寺縁起」によれば、弘法大師創建。お大師様がご本尊に加え、邪気を払う不動明王、鎮護国家の毘沙門天も彫像しています。

大正二年頃、盲目の高松伊之助というお遍路さんが、ご本尊のご利益によって目が見えるようになったと語り継がれています。

十六番札所から約三キロメートル。七世紀後半に天武天皇の勅願で建立されたのが十七番札所、瑠璃(るり)山井戸寺。ご本尊は聖徳太子作の七仏薬師如来です。

七仏薬師如来は珍しい仏像であり、七難即滅、七福即生として開運信仰の対象となっています。

「面影の井戸」はお大師様が掘った伝説の井戸。覗き込んで自分の姿が映れば無病息災、映らなければ三年災厄に注意するようにと言われています。

十六番、十七番、次の十八番も天正の兵火に罹災しています。

玉依御前(たまよりごぜん)

十七番札所から十九・六キロメートル。徳島市のシンボルと言われる眉山(びざん)を横目に勝浦川を渡ると小高い山の中腹にあるのが十八番、母養山恩山寺。

お大師様の生母、玉依御前ゆかりの札所です。剃髪した御前の髪の毛が安置されています。詳しくは来月号で。乞ご期待。