【第153号】四国霊場、紙上遍路の旅3(十番得度山切幡寺・十一番金剛山藤井寺・十二番摩蘆山焼山寺

皆さん、こんにちは。今日はご祥当。いよいよ春本番ですが、朝晩は冷え込む日もあります。くれぐれもご自愛ください。紙上遍路の今年のかわら版。それでは出発。

女人即身成仏

九番札所から約五キロメートル。十番札所は得度山切幡(きりはた)寺。ご本尊は千手観世音菩薩です。

参道は急で、山麓から中腹の本堂まで約八百メートル。

お大師様がここで修行をしていた時、山麓に機(はた)を織る娘がいたそうです。

お大師様が僧衣を繕うために端切れを所望したところ、娘は自分が織った布を切ってわけてくれました。寺名(切幡寺)の由来です。

「自分も仏門に入って精進したい」と言う娘のために、お大師様は千手観世音像を彫造。そして娘を得度させたところ、娘は即身成仏して千手観世音菩薩に変化(へんげ)。

お大師様の彫った千手観世音像を南向き、娘であった千手観世音菩薩を北向きに安置してご本尊としました。

「女人即身成仏の寺」として知られ、心優しい善女に憧れる女性遍路に人気の高い札所です。

四国三郎

十番札所から九・一キロメートル。歩くこと約二時間。十一番札所の金剛山藤井寺に到ります。

道中、全長二三六キロメートル、四国最長の吉野川を渡ります。葦(よし)が河原に多く繁ることから吉野川と呼ばれるようになりました。

古来より、たびたび大洪水を起こす各地の大河川は腕白(わんぱく)兄弟に喩えられ、関東の利根川は板東太郎、九州の筑後川は筑紫次郎、四国の吉野川は四国三郎と呼ばれていました。

吉野川は水流が四国全県に及びます。江戸時代には、阿波(徳島)藩内の豪雨に伴う水害を「御国水」、土佐(高知)藩内の豪雨に伴う水害を「阿呆(土佐)水」と呼んだそうです。

藤井寺は真言密教の大伽藍として発展しましたが、天正年間(一五七三~九二年)の兵火により焼失。

一六七四年、阿波藩主(蜂須賀氏)が帰依していた臨済宗の南山国師が入山して再興しました。

このため、一番から十番札所は真言宗ですが、藤井寺は臨済宗妙心寺派。ご本尊は薬師如来です。

遍路ころがし

十一番札所から十六・八キロメートル。十二番札所は摩廬山(まろざん)焼山寺(しょうざんじ)。標高九百メートル近くにあり、二番目に標高の高い山岳霊場。ご本尊は虚空蔵菩薩です。

四国霊場には、お大師様のはからいによって六カ所の難所(苦行の札所)があります。

ここ十二番焼山寺に始まり、二十番鶴林寺、二十一番太龍寺、二十七番神峰寺、六十番横峰寺。それぞれ険しい山中に本堂があり、「遍路ころがし」と呼ばれています。

衛門三郎と逆打ち

焼山寺は、四国遍路の元祖、衛門三郎最期の地。

三郎は伊与(愛媛)の強欲な長者。ある時、門前に立った托鉢僧を邪険に扱います。托鉢の鉄鉢も奪って投げ捨て、砕きました。

すると、三郎の家族は次々と災難に見舞われます。三郎は托鉢僧はお大師様に違いないと気づき、会って詫びたい一心で八十八カ所霊場を二十回巡拝。しかし、お大師様には会えません。

二十一回目の時、札所を逆向きに回り、この地で老いと病に倒れると、ようやくお大師様に会えました。

お大師様は三郎に「修行したので罪業は消えた」と告げ、金剛杖を墓標として遺骸を手厚く葬りました。

三郎の逆回りの巡拝は逆打ち(さかうち)の始まりと言われています。因みに、四国を右回りに巡拝するのは順打ちです。

阿波霊場二十三カ所

今月は三○・九キロメートル踏破。来月は十二番札所から鮎喰川沿いに下ります。阿波霊場は二十三カ所。来月は後半に入ります。乞ご期待。