【第150号】最澄・空海後の仏教11(明治時代から現代への仏教)

皆さん、こんにちは。今年もあとわずか。早いですねぇ。最澄、空海後の仏教をお伝えしてきた今年のかわら版。最終回の今月は明治時代から現代への仏教についてです。

廃仏毀釈

明治政府は、欧米列強に追いつくことを目標に、富国強兵、殖産興業を掲げ、近代化を急ぎました。

国力を集中するためには強力なカリスマ的リーダーが必要と考え、天皇を国と国民を統治する神と位置付け、国家神道が打ち出されました。

それに呼応して、一八六八年、神仏分離令が発布され、本地垂迹説を拠り所とする神仏習合の考え方が否定されました。

一八七〇年、大教宣布の詔が出され、神道国教化を目指す動きが強まり、それに伴って仏教排斥運動が全国に広がりました。廃仏毀釈です。

江戸時代は幕府の庇護を受け、統治制度の一翼を担ってきた仏教を巡る環境は激変。

そうした中で、仏教界の改革を目指す多くの僧侶が登場します。主な人々を紹介します。

仏教改革

浄土真宗本願寺派の島地黙雷(一八三八~一九一一年)は、俗化した宗門の改革を主張。また、渡欧して欧州の宗教政策、宗教行政を研究し、政教分離と信教の自由を主張。パリから政府に建白書を送り、神道国教化を断念させることになります。

浄土真宗大谷派の清沢満之(一八六三~一九〇三年)は、佐々木月樵(一八七五~一九二六年)、暁烏敏(一八七七~一九五四年)とともに雑誌「精神界」を発刊し、仏教革新を目指す精神主義運動を起こします。

臨済宗円覚寺派の釈宗演(一八五九~一九一九年)は宗派を超えて仏教改革に注力。一八九三年には米国で開催された万博に出席してスピーチし、日本の仏教を世界に発信しました。

釈宗演の弟子が鈴木大拙(一八七〇~一九六六年)です。東京帝国大学哲学科で学ぶと同時に禅を修め、一八九七年に渡米。多くの仏教書を英訳して日本の仏教を世界に伝えました。

鈴木大拙は哲学者西田幾多郎と同郷・同年生まれの旧知の仲であり、生涯にわたる親交があったそうです。

ほかにも、多くの弟子を育てた曹洞宗の沢木興道(一八八〇~一九六五年)、日蓮宗を脱して在家仏教の指導者となった田中智学(一八六一~一九三九年)、中央アジアの仏跡探検を果たした大谷光瑞(一八七六~一九四八年)、チベット仏教の研究した河口慧海(一八六六~一九四五年)など、いずれも近代仏教の礎を築いた先人たちです。

戦時統制

明治時代中頃には、タイ国王から仏舎利(お釈迦様の骨)を寄贈されることになったのを契機に宗派を超えた仏教界の集まりとして帝国仏教会が組織され、一九○○年には国家の宗教統制に反対して仏教懇話会も結成されました。

因みに、その仏舎利を奉安しているのが覚王山日泰寺(日本とタイで日泰寺)。本堂前にはタイ国旗が掲げられ、タイ国王の銅像もあります。ご本尊は、タイの国宝、金銅釈迦如来像です。

昭和に入ると、戦時色が強まる中、政府による宗教統制も強化。仏教界も次第に戦争協力の姿勢を強めざるを得なくなりました。

一九三九年、宗教団体法施行によって仏教界は国家政策に同調。一九四四年の大日本戦時宗教報国会の設立を経て、敗戦を迎えました。

一九四五年、敗戦に伴って発布された宗教法人令によって十三宗二十八派の統制が解除され、二百六十団体が宗教法人として名乗りを上げました。

その中には、幕末から明治・大正・昭和の間に信者を広げてきた新興の宗教や宗派も含まれており、現在につながっています。

現代の仏教

戦後の仏教は新たな歩みを始めました。一九五〇年の世界仏教徒連盟、一九五四年の全日本仏教会(全日仏)、一九七〇年のアジア仏教徒平和推進委員会の設立などを経て、国内外で活発に活動を行っています。

本来、「生きるとは何か」「自分とは何か」という内省的な問いかけを本質とする仏教。
混迷の時代の仏教の意義と役割が問われ続けています。

それでは皆さん、良い年をお迎えください。