【第149号】最澄・空海後の仏教10(江戸時代の仏教)

皆さん、こんにちは。十一月になり、寒い日が多くなりました。くれぐれもご自愛ください。最澄、空海後の仏教がテーマの今年のかわら版。今月は江戸時代の仏教についてです。

禁中並公家諸法度

江戸幕府は、鎌倉幕府以降の朝廷と幕府の対立、有力寺院と幕府の対立の歴史を踏まえ、朝廷と寺院を徹底して管理しようとしました。

禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)は、徳川家康が南禅寺の僧、金地院崇伝(こんちいんすうでん)に起草させました。

諸法度では、朝廷が僧に紫衣(しえ=最高格を法衣)をむやみに与えることを禁止。紫衣を与えると勅許料が朝廷に入る仕組みのため、乱発気味であったことを統制したものです。

当然、朝廷と仏教界は反発。一六二七年、抗議のために後水尾天皇は退位。幕府の相談役であった大徳寺僧、沢庵(たくあん)も反対し、一六二九年、出羽上山に流罪。紫衣事件です。

崇伝、沢庵のように、江戸幕府は高僧をブレーンとして活用しました。上野寛永寺を開いた天海(てんかい)もその一人。百八歳まで生き、家康・家忠・家光の三代に仕えました。

本山末寺制

江戸幕府は、仏教を統治制度(幕藩体制)の中に巧みに組み込みました。

寺院に本山と末寺の関係を定め、全寺院の管理統制を図りました。この本山末寺制は、一六三二年から三三年にかけて、寺院本末帳が作成されたことによって完成します。

一六三五年には寺社奉行を設置。寺院と神社を管理する役所です。また、各宗派には江戸に出先機関である触頭(しょくとう)寺院を置くことを義務づけました。各藩の江戸屋敷と同じ位置付けです。

同年、島原の乱が勃発。島原・天草地方の領主の圧政に農民が反発。キリスト教徒(切支丹)である天草四郎時貞を中心にした反乱です。

この乱を契機に、幕府は隠れ切支丹を取り締まる目的で宗門改役(あらためやく)を起き、寺請(てらうけ)制度と宗旨人別(しゅうしにんべつ)帳を設けました。

必ずいずれかの寺院の檀家になり、旅などの移動の際には、それを証明する寺請証文の携行が義務づけられました。
つまり、必ず菩提寺を持ち、名前・年齢・家族構成などを届け出て、それを記録するのが宗旨人別帳です。これは寺檀制度・檀家制度と呼ばれ、宗旨人別帳は現代の戸籍や住民票の役割を果たしました。

檀林・学林

各宗派では、戦国時代に政治勢力化して乱れた教団の引き締めのため、教学や戒律の復興運動が起き、壇林や学林と呼ばれる教育機関も次々と設けられました。

各宗派が多くの優秀な学僧や名僧を輩出する一方、世法即仏法を説き、自分の仕事に邁進することが仏道修行であり、悟りにつながることを説いた鈴木正三(しょうさん、一五七九~一六五五年)などが、江戸時代の仏教観、倫理観を形成していきました。

葬式、年忌法要、お盆、お彼岸、灌仏会、成道会、涅槃会、縁日参り、ご開帳、祖師・札所巡礼などの仏教行事が庶民の暮らしに根づいていったのが江戸時代です。

十二月=明治維新後と現代

江戸時代末期になると、外国船が日本近海に頻繁に出没。

一八五三年、浦賀沖にペリー艦隊が現れたのを契機に、国内は勤王派と佐幕派に分かれて紛糾。最終的に大政奉還と王政復古が実現し、一八六八年、明治維新となります。

来月は、明治時代から現代の仏教をお伝えします。乞ご期待。