【第148号】最澄・空海後の仏教9(信長と秀吉の仏教)

皆さん、こんにちは。秋本番の十月。朝晩は寒くなりました。くれぐれもご自愛ください。最澄、空海後の仏教がテーマの今年のかわら版。今月は信長・秀吉と仏教についてです。

二大宗教勢力と信長

織田信長(一五三四~八二年)の天下統一の過程で、二大宗教勢力(比叡山、一向宗=本願寺)は常に信長の敵対勢力と呼応して対立。信長は多くの身内を戦いで失い、二大宗教勢力に対する厳しい姿勢につながりました。

信長が天下布武の印文を使い始めた一五六七年頃、尾張に隣接する北伊勢は一向宗の勢力下。

親鸞の弟子、真慧が拠点を下野高田から伊勢一身田に移して約二年。既に門徒数十万人の一大勢力となり、事実上の自治領。同年、信長に敗れた美濃の斎藤龍興も北伊勢に逃げ込みました。

一五六八年以降、信長は伊勢国司北畠氏に弟・信包と次男・信雄、北伊勢の有力武士神部氏に三男・信孝を相次いで養子や養嗣子として送り込み、影響力拡大を図ります。

石山合戦

一五七〇年、浅井・朝倉や三好三人衆(摂津)と争う中、石山本願寺が信長に対して挙兵。信長の弟・信治や重臣が討死。以後十年間、信長と石山本願寺の壮絶な石山合戦が続きます。

浅井・朝倉は比叡山に立て籠もり抵抗。呼応して本願寺の顕如の命を受けた伊勢門徒が蜂起(長島一向一揆)。信長の弟・信興が討死。

七一年、信長は、浅井・朝倉に加勢し、撤退・中立の勧告も拒否した比叡山を焼き討ち。

七二年、本願寺は信長と和睦。同年、上洛を目指して信長に圧力をかけていた武田信玄が急逝。この機に信長は足利義昭を追放。室町幕府は名実ともに消滅。信長は元号を天正に改号。

七三年、信長は伊勢長島に進軍。

七四年、越前本願寺門徒の蜂起に呼応して武田勝頼が美濃に侵攻。同年、信長は伊勢長島を水陸から包囲して殲滅。兄・信広、弟・秀成が討死。

七五年三月、本願寺と激戦の末、和睦。五月、長篠の戦で武田軍に勝利。八月、守護代を殺害した越前本願寺門徒を討伐。

七六年、信長に反旗を翻した足利義昭に呼応して本願寺が三度挙兵。信長自ら出陣し、銃撃負傷。本願寺を支援する毛利水軍との第一次木津川口海戦に苦戦し、和睦。

七七年、本願寺に呼応する雑賀衆掃討のため紀州征伐。

七八年、荒木村重の離反に呼応し、毛利・本願寺軍が再び信長と対立。信長は九鬼嘉隆が考案した鉄甲船を投入し毛利水軍を撃破(第二次木津川口海戦)。孤立した本願寺は兵糧攻めを恐れ、七九年末から和睦を検討。

八〇年、正親町天皇の勅命で本願寺は信長に有利な条件で和睦。ついに本願寺は石山(大阪)から退去しました。

高野山と秀吉

一五八一年、高野山が信長の敵対勢力の残党を匿い、足利義昭と謀議。信長は織田領の高野聖数百人を捕縛・処刑し、高野山を包囲。対立が続く中、翌一五八二年五月二十九日、本能寺の変で信長は没します。

信長亡き後、豊臣秀吉(一五三七~九八年)も当初は仏教勢力と対立。高野山を武力によって制圧します。

一五八五年、秀吉の紀州征伐、根来寺焼き討ちの際、高野聖の木食応其(もくじきおうご)が和議に臨みます。

応其は秀吉の信頼を得て、秀吉はむしろ高野山の再興に尽力。応其は高野山を救いました。

一方、応其も秀吉の方広寺造営や島津との和睦交渉に尽力。

秀吉は高野山内に興山寺と母(大政所)の菩提寺(剃髪寺=青厳寺)を開基。両寺は現在の金剛峯寺の前身です。

一五九三年、側室淀殿が秀頼を産むと、秀吉は関白の座を譲っていた甥の秀次と対立。一五九五年、応其は秀次の罪(不殺生戒)を認め、青巌寺で切腹させる役回りを負わされました。

秀吉はその後も大仏建立や本願寺再建に注力するものの、仏教に帰依した様子は伺えませんでした。

江戸時代の仏教

秀吉没後、関ヶ原の戦い(一六〇〇年)、江戸幕府開府(一六〇三年)、大阪冬の陣(一六一四年)、夏の陣(一六一五年)、徳川家康逝去(一六一六年)を経て、本格的な江戸時代が幕開け。

奈良・平安・鎌倉・南北朝・室町時代に政治勢力化していった仏教。信長・秀吉(安土桃山)時代を経て、江戸時代には新たな役割を担うことになります。来月は江戸時代の仏教です。乞ご期待。