皆さん、こんにちは。早いものでもう九月。朝晩は冷え込む日もあります。くれぐれもご自愛ください。最澄、空海後の仏教がテーマの今年のかわら版。今月は一向宗の興隆についてです。
蓮如(れんにょ)と真慧(しんね)
親鸞が開いた浄土真宗。ひたすらに、一筋に念仏することを意味する「一向」から、一向宗とも呼ばれていました。
室町時代には、親鸞の子孫が継承した京都東山大谷の本願寺派と、親鸞が在住布教した下野(しもつけ=栃木)高田の専修(せんじゅ)寺を拠点とする専修寺派に分かれていました。
室町時代中頃の一四六七年(応仁元年)、足利将軍家の家督争いに有力幕臣(細川勝元と山名宗全)の対立も絡み、全国の武士を巻き込んだ応仁の乱(~一四七七年)が勃発。これを機に、徐々に戦国時代に突入していきます。
その頃、本願寺派には蓮如(一四一五~一四九九年)、専修寺派には真慧(一四三二~一五一二年)が出て、一向宗の勢力は急拡大します。
真慧は拠点を下野高田から伊勢一身田に移し、高田派と自称。
比叡山や朝廷に接近し、宗派の地位安泰を画策したことに端を発し、弟子たちの争いが起きて分裂します。
加賀一向一揆衆
一方、蓮如は手紙(御文または御文章)や寄合いを活用して庶民の布教に注力。門徒拡大の勢いを怖れた比叡山は、本願寺を破壊して蓮如を迫害します。
蓮如は三河に逃げ、さらに越前吉崎に拠点を移します。吉崎には全国から門徒が集まり、大いに栄えます。
やがて、本願寺派の門徒、僧も応仁の乱に伴う政争や加賀国の家督争いに巻き込まれ、一四八八年、加賀国守護の富樫政親を滅ぼします。
以後、加賀国は、後に織田信長に敗れるまでの約一世紀間、本願寺派の門徒、僧、農民、武士、商人等の自治国となります。加賀一向一揆衆です。
石山本願寺
やがて、蓮如は争いを避けて山科に拠点を移します。また、大坂石山にも坊を建てました。
一四九九年、蓮如が亡くなると、比叡山と日蓮宗の宗徒が近江守護の六角氏と手を組み、一向宗の山科の拠点を焼き討ち。
それを機に、石山の坊が一向宗の拠点として発展。後の石山本願寺です。
山科の一向宗を襲撃した比叡山と日蓮宗。その後は、日蓮宗の拡大も望まない比叡山が日蓮宗の二十一寺を破壊。京都の日蓮宗は衰退します(天文法華の乱)。
こうして、戦国時代佳境の十六世紀には、比叡山と石山本願寺が二大宗教勢力となっていました。
本地垂迹説
鎌倉時代に開創された新しい六宗派は、室町時代から戦国時代にかけて大衆化していったと言えます。
公家、武士、農民、商人など、あらゆる階層に仏教が共有されていった時代です。来生での往生を願い、御利益を祈願する宗教として、仏教は民衆の間に根づいていきました。
また、この時期には、神仏混交の考え方が一層広まりました。
仏教の仏(本地=ほんち)が日本の神の姿を借りて現れる(垂迹=すいじゃく)と考えられ、仏教寺院と神社が一体化。両部神道、山王神道、法華神道などと呼ばれました。
信長・秀吉と仏教
戦国時代の武将にとって、二大宗教勢力となった比叡山と石山本願寺は気になる存在です。
中でも、天下統一を目指した織田信長は比叡山と石山本願寺と壮絶な戦いを繰り広げます。
来月は信長・秀吉と仏教をお伝えします。乞ご期待。