【第145号】最澄・空海後の仏教7(日蓮の日蓮宗)

皆さん、こんにちは。夏本番の七月。くれぐれもご自愛ください。最澄、空海後の仏教がテーマの今年のかわら版

今月は日蓮の日蓮宗についてです。

立正安国論

一二二二年、日蓮は太平洋に面した安房国(あわのくに=千葉県安房郡)小湊で生まれました。

十二歳の時、地元の名刹、天台宗清澄寺に入山。道善房を師として十六歳で得度します。

二十一歳になった一二四二年からの約十年間、比叡山、高野山、四天王寺などで修行に励み、法華経こそが真実の経であるとの確信に至ります。

一二五三年、故郷の清澄寺に帰った日蓮は、南無妙法蓮華経を海に向かって唱え、立教開宗を宣言。日蓮と名乗り始めたのもこの時からです。

やがて鎌倉松葉谷に草庵を結び、近隣の僧俗と法華経を修学。天台大師智顗の教えに傾倒します。

一二五七年、鎌倉で大地震が発生。飢饉と疫病にも見舞われ、人々は絶望に陥りました。

一二六〇年、仏教経典の全てを収蔵した大蔵経を読破した日蓮は、救国を説く立正安国論をまとめて幕府に献呈します。

法難

立正安国論では他の宗派を批判し(四箇格言=しかかくげん)、法華経だけが末法の世を救うと説きました。

立正安国論を献呈した翌月、草庵が焼き討ちに遭い(松葉谷法難)、翌一二六一年、幕府の命で伊豆伊東に配流されます(伊豆法難)。

赦免されて帰郷した一二六四年、松原大路で他宗派の信者に襲撃されます(小松原法難)。相次ぐ法難にも日蓮の信念は揺らぎません。

一二六八年、元の使者が服従を強いる国書を執権北条時宗に手交するものの、時宗はこれを無視。

日蓮は幕府に対して立正安国論の予言が的中したと指摘し、国をあげて法華経に帰依することを主張。

激怒した幕府は日蓮を捕縛し、鎌倉龍口(たつのくち=江ノ島対岸)で打ち首にしようとしたところ、斬首役の刀に落雷。刀が折れて一命をとりとめます(龍口法難)。

日蓮は減刑され、佐渡に配流。一二七一年、四十九歳の時でした。

元寇

一二七四年(文永十一年)、日蓮は赦免されて信者の波木井(南部)実長の領地内の身延山に草庵を結びます。

同年、元・高麗連合軍が対馬・壱岐・太宰府に襲来(文永の役)。日蓮は人々の無事を祈願。元・高麗軍は偶然の嵐に見舞われて退散します。

身延山久遠寺に大坊が完成した一二八一年(弘安四年)、再び元・高麗軍が襲来(弘安の役)。この時も日蓮は祖国の無事を祈願。またしても偶然の嵐によって元・高麗軍は退散。日蓮五十九歳、入滅する前年のことでした。

池上本門寺

日蓮は、佐渡配流の間に書いた開目抄をはじめ、撰時抄、報恩抄、観心本尊抄など、多くの著作や信徒への手紙を残しました。

日蓮の筆跡は御真蹟(ごしんせき)として尊ばれ、今日でも厳格に護持されています。

一二八二年、体調を崩した日蓮は、療養のために身延山を下山。

武蔵国の信者、池上宗仲の館に立ち寄った際に六十歳で入寂。館跡はのちの池上本門寺となりました。

室町仏教

元寇の恩賞への不満などから、やがて鎌倉幕府の御家人は執権(北条家)による得宗政治に反発。後醍醐天皇の勅命に呼応した足利尊氏、新田義貞らが挙兵し、一三三三年、鎌倉幕府は滅亡。南北朝時代を経て室町時代へと至ります。

来月は鎌倉仏教から発展した室町仏教についてお伝えします。乞ご期待。