【第144号】最澄・空海後の仏教6(道元の曹洞宗)

皆さん、こんにちは。梅雨の季節になりました。くれぐれもご自愛ください。最澄、空海後の仏教がテーマの今年のかわら版。今月は道元の曹洞宗についてです。

明全(みょうぜん)

道元は鎌倉時代中頃の一二〇〇年、内大臣久我通親の子として京都で誕生。通親は養父で、実父はその息子、大納言堀川通具という説もあります。

三歳で父を、八歳で母を亡くした道元は、十三歳で出家します。

比叡山で良観(良顕)、公円に師事した後、建仁寺で栄西の後を継いだ明全に入門します。
その直後、三代将軍源実朝の暗殺(一二一九年)、朝廷と幕府が争った承久の乱(一二二一年)が起き、世相は殺伐としていました。

そんな時代に仏道に救いと悟りを求めた道元は、一二二三年、明全と一緒に宋に渡ります。道元、二十三歳の時でした。

明全(みょうぜん)

やがて明全と別れ、ひとりで師を求めて宋を放浪します。

一二二五年五月一日、浙江省の天童山景徳寺で如浄に面会した道元。

即座に如浄こそ正師と悟り、如浄も日本から来た修行僧の非凡な才能に気づき、「仏々祖々(ぶつぶつそそ)の面授の法が成る」と語ったと伝えられています。

面授とは正師と弟子が相まみえ、仏祖正伝の教えが引き継がれることを意味します。

古くは釈迦と摩訶迦葉、恵果と空海の出会いも、面授の法の一場面です。

長年坐して悟りを開き面壁九年と言われた達磨大師以来の正伝仏法を継承していた如浄の教えが道元に伝えられます。

心身脱落(しんしんだつらく)

一二二五年七月、厳しい夏安居(げあんご=僧の修行合宿)の坐禅中のことです。

道元は、自分の心身が自分を離れて全ての束縛や煩悩から解放される感覚を経験をしたことを如浄に報告。心身脱落です。

如浄は「脱落、脱落」と語り、心身脱落したことさえ忘れることの大切さを諭しつつ、道元が大悟に至ったことを認めます。

一二二七年、道元は嗣書(悟りの証明書)を得て帰国の途につきます。

道元に正伝仏法を面授したことに安堵したかのように、如浄はその年に示寂(逝去)しました。

この別れも、恵果と空海の惜別を彷彿とさせます。

只管打坐と現成公案

帰国後の道元は、修行と著述の日々に入ります。

ただひたすらに坐禅することを勧める只管打坐(しかんたざ)、現実の事象全てが仏道そのものであることを説く現成公案(げんじょうこうあん)、その結果として得られる悟りの境地の心身脱落。

道元は、それらを教える普勧坐禅儀(一二二八年)、正法眼蔵(一二三一年)などを著して新しい仏法の礎を築きます。

その後、懐奘(えじょう)、懐鑑、義戒、義演ら、達磨宗の門徒が相次いで道元に入門。

一二四三年、道元一門は京都を離れて越前入り。地頭である波多野義重の庇護の下、大仏寺を開創。三年後に永平寺と改称します。

一二五三年、懐奘が永平寺二世に就任。病身となった道元は療養のために京都に入り、八月二十八日に入滅。五十三歳の生涯でした。○道元の教えは、永平寺三世、瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)の代に曹洞宗として確立。紹瑾はやがて總持寺も開きます。

曹洞宗は、道元・紹瑾を高祖・太祖の両祖としています。

日蓮

道元が入滅した一二五三年。時同じくして日蓮が法華題目を唱えて立宗を宣言します。

来月は日蓮についてです。乞ご期待。