【第143号】最澄・空海後の仏教5(栄西の臨済宗)

皆さん、こんにちは。新緑の五月。すごしやすい季節ですね。最澄、空海後の仏教がテーマの今年のかわら版。今月は栄西の臨済宗についてです。

持律第一葉上房

鎌倉仏教のふたつの大きな流れである浄土宗と禅宗の開祖が、同じ時期、同じ地方で生を受けました。

美作(みまさか、岡山県北部)で生まれた法然(一一三三~一二一二年)誕生八年後の一一四一年、栄西は備中(岡山県西部)吉備津(きびつ)神社の神官、賀陽(かや)貞遠の子として生まれました。

父は仏教にも詳しく、その基礎を栄西に教育。その影響で十一歳の時に出家し、安養寺、比叡山で修行します。

同時期、法然も比叡山で修業。二人は「智慧第一法然房、持律第一葉上房(栄西)」と並び称され、やがてともに新しい宗派を興します。

興禅護国論

一一六八年、二十七歳の栄西は、大陸の進んだ仏教を学ぶために宋に渡りました。そこで禅が盛んなことを知り、関心を抱きます。

明州では、日本から来ていた重源(一一二一~二〇六年)と遭遇。重源は兵火で焼失した東大寺再建の勧進僧です。以後、一緒に宋を遊行します。

やがて栄西は多くの天台宗の文献などを日本に持ち帰り、天台座主の明雲に献上。その際、日本に初めて茶を伝えます。

一一八七年、四十六歳になった栄西は再び渡宋。インドに行く目的は果たせませんでしたが、天台山の名僧虚菴懐敞(こあんえしょう)に師事。

密教と禅の教えは同じであるとの師の教えに接し、禅を本格的に学び、臨済宗の教えを究めます。

一一九一年、帰国した栄西は禅を布教しようとしますが、旧仏教勢力からの弾圧に遭い、興禅護国論を執筆。

ところが栄西は、京に対抗する新しい文化を求めていた鎌倉幕府の二代将軍源頼家やその母、北条政子の帰依を受けます。

その後ろ盾もあって、一二〇〇年、初代将軍頼朝一周忌の導師を務め、北条政子建立の寿福寺を開山します。
一二〇二年、京に建仁寺を建立。以後は、京と鎌倉を往復しながら禅を布教します。

五月=栄西・重源=臨済

一二〇六年、宋で知己を得て以来、親交を重ねていた重源が入寂。重源の後を受け、栄西は東大寺大仏殿再建勧進僧を務めます。

一二一四年には、喫茶養生記を書いて三代将軍源実朝に献呈。二日酔いがひどく、人生にも悩んでいた三代将軍実朝に、茶の効用と禅の教えを説いたと言われています。

一二一五年、栄西は寿福寺で入寂。七十四歳でした。

入寂の地は鎌倉との説もあります。吾妻鏡には、結縁を願って鎌倉中の人々が集まり、源実朝の代理として大江親広が臨終に立ち会ったと記されています。

一二七九年、大陸では宋が元に滅ぼされます。多くの禅僧が戦火と蒙古の支配を逃れて来日。

来日僧の中には、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)、無学祖元(むがくそげん)、一山一寧(いっさんいちねい)などの名僧が含まれており、こうした禅僧が栄西の教えを継いだことが、日本の禅宗や臨済宗の興隆につながりました。

道元の曹洞宗

栄西が寿福寺を開山した一二〇〇年、臨済宗と並ぶ禅宗の双壁となる曹洞宗の開祖、道元が誕生。

来月は、栄西の孫弟子となる道元の曹洞宗についてお伝えします。乞ご期待。