【第141号】最澄・空海後の仏教3(親鸞の浄土真宗)

皆さん、こんにちは。今日はご祥当。お大師様の命日です。最澄、空海後の仏教がテーマの今年のかわら版。今月は親鸞の浄土真宗についてです。

六角堂百日参籠

親鸞は一一七三年、京都伏見の一角を所領とする日野有範の子として誕生。藤原北家の系譜です。

一一八一年、八歳の時に慈円の下で出家。比叡山に入って二十年間修行します。その間、洛中では法然の専修念仏が広まっていました。

古い体質の旧仏教に限界を感じていた親鸞。一二〇一年、聖徳太子縁(ゆかり)の六角堂に百日参籠します。

参籠中のある夜、夢に現れた観音菩薩(聖徳太子の化身)のお告げに従い、夜明けとともに東山吉水にある法然の草案を訪ね、そのまま弟子入りします。親鸞二十八歳、法然六十九歳の時でした。

恵信尼(えしんに)

法然に認められつつあった矢先の一二〇七年、建永の法難に遭います。

人々に急速に広まっていた法然の専修念仏が旧仏教界や朝廷から弾圧を受け、法然は四国に、親鸞は越後に流罪となります。親鸞三十四歳の時です(詳細は先月号ご参照)。

親鸞は、流刑先の越後高田の地主の娘と結婚。妻も出家して恵信尼と名乗ります。

一二一一年、三十八歳の親鸞は罪を許され、妻子とともに東国への移住を決意。

流浪の末、常陸国稲田(現在の茨城県笠間市)に落ち着き、以後二十年間をこの地で過ごします。

他力本願

一二二四年、親鸞は教行信証(きょうぎょうしんしょう)を著し、浄土真宗を立宗。五十二歳の時です。

法然が「念仏を称えることで阿弥陀仏に救われる」と説いたのに対し、親鸞は「既に阿弥陀仏に救われていることへの報恩の念仏を称える」と主張。

この考えは浄土宗の根本経典である無量寿経の解釈から生まれました。

無量寿経には、阿弥陀仏が仏になる前の法蔵菩薩が四十八の願をかけ、それが達成されないうちは仏にならないと誓ったと記されていました。

阿弥陀仏は既に仏であることから、法蔵菩薩の願は成就していることになります。そして、その願の中に「あらゆる衆生が浄土に往生する」とあったことから、親鸞は「人々は既に救われている」と考えたのです。

救わるために念じるのではなく、既に救われていることへの報恩感謝のために南無阿弥陀仏を称える。これが親鸞の他力本願の考えです。

非僧非俗、悪人正機説

親鸞は、自分は僧でも俗人でもないとして非僧非俗を宣言。言わば在家信者の元祖です。

弟子の唯円が著した歎異抄に記された親鸞の言葉。「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」。衆生は悟りからほど遠い悪人だが、その悪人こそ救われるとする悪人正機説です。

こうした教えに共鳴し、常陸国を中心に関東に多くの門弟が育ち、念仏集団が広がりました。
事態を重く見た鎌倉幕府は一二三四年、専修念仏を禁止。

翌一二三五年、親鸞は関東を去り、娘の覚信尼を伴って京都に戻ります。六十二歳の時です。

東山大谷に居を構え、息子たち(善鸞、明信、有房)を東国で活動させ、教書の執筆に注力した晩年。充実した時を過ごした親鸞は、一二六二年、八十九歳で亡くなりました。

親鸞の廟は東山大谷に建てられ、のちの本願寺へと発展していきます。

四月=一遍=時宗

さて、法然、親鸞に続いて世に出たのは踊り念仏で知られる一遍。来月は一遍の時宗についてです。乞う期待。