【第140号】最澄・空海後の仏教2(法然の浄土宗)

皆さん、こんにちは。まだまだ寒い日が続きます。くれぐれもご自愛ください。最澄・空海後の仏教がテーマの今年のかわら版。今月は法然の浄土宗についてです。

法然房源空

法然は平安時代末期の一一三三年、美作(みまさか=岡山県)国に生まれました。

父の漆間時国(うるまときくに)は押領使(おうりょうし=警察官)。法然が七歳の時に夜襲を受け、深手を負って亡くなります。

「恨みは次の恨みを生む。仇討を考えずに出家せよ」という父の遺言を受け、法然は菩提寺の住職で伯父の観覚(かんがく)に引き取られました。

やがて観覚は法然の才能に気づき、比叡山で修行させます。

比叡山で源光、皇円(こうえん)、叡空(えいくう)等に師事し、天台宗や戒律、往生要集などを修得。

その優秀さから十八歳で法然房源空という名を授かり、「智慧第一の法然房」と称されました。

以後、洛中の寺を遊学し、読書三昧の日々を送ります。

南無阿弥陀仏

一一七五年、四十二歳の法然は一冊の本に巡り合います。中国浄土教の大成者善導(ぜんどう、六一三~八一年)が執筆した観経疏(かんぎょうしょ)です。

その中の散善義(さんぜんぎ)という文章から法然は阿弥陀仏の真意を悟ります。

曰く「一心に阿弥陀仏の名号を唱えれば阿弥陀仏はその人を救う。なぜならば、それが阿弥陀仏の願いだから」。

法然は比叡山を下りて東山吉水に庵を結び、都の人々に専修念仏(せんじゅねんぶつ)を説きます。

南無阿弥陀仏と唱えれば誰でも極楽浄土へ往生できるという法然の教えは、瞬く間に人々の間に広がりました。浄土宗の旗揚げです。

一一七五年と言えば、法元の乱(一一五六年)、平治の乱(一一五九年)から、壇ノ浦の戦い(一一八五年)、鎌倉幕府開府(一一九二年)の間の時期です。

戦乱と貧困に苦しむ人々が専修念仏に一縷の望みを見い出したのです。

建永の法難

一一八九年、摂政・関白を務める九条兼実(かねざね)が法然の下で受戒したため、法然の名声が高まりました。
官僧であった証空、隆寛らも続々と入門。一二〇一年には親鸞も師事。法然六十八歳の時です。

しかし、いつの時代も「出る杭は打たれる」。専修念仏の人気を心よく思っていなかった比叡山延暦寺や奈良興福寺などの勢力が、後鳥羽上皇に働きかけ、法然たちの活動を弾圧します。

教義、修行、寄進を重んじる旧来仏教にとって、念仏だけで浄土に往生できると説く専修念仏は脅威だったからでしょう。

一二〇四年(元久元年)、比叡山信徒に専修念仏を禁止する七箇条制誠(せいせい)が発出されます(元久の法難)。

一二〇六年、貞慶(じょうけい)を中心に興福寺信徒が専修念仏の禁止を訴えます(興福寺奏条)。

一二〇七年(建永元年)、専修念仏停止の院宣により、四人が死罪、八人が流刑になります(建永の法難)

法然は四国讃岐に流罪。何と七十四歳の時です。弟子の親鸞も越後高田に流されます。親鸞三十五歳の時です。

一二一一年、法然は赦免され、東山大谷の禅房に隠棲。翌年一月二十五日、弟子の源智に遺言書である一枚起請文を授け、七十九歳で亡くなりました。

法然ゆかりの東山の地に発展したのが京都知恩院です。

親鸞の浄土真宗

救われるために専修念仏を説いた法然。来月は、既に救われていることに感謝(報恩感謝)するための念仏を唱えた親鸞の浄土真宗についてです。乞ご期待。