【第135号】最澄と空海の時代9(空海の晩年)

皆さん、こんにちは。最澄と空海の時代についてお伝えしている今年のかわら版。今月は空海の晩年です。

満濃池(まんのういけ)

八二一年、空海四十八歳の時、故郷である讃岐の郡司(役人)が朝廷に満濃池という溜池の堤防修築を願い出ました。

堤防は三年前に決壊。技術、人手、資金が足りず、修築の見込みが立っていませんでした。

しかも、空海を築満濃池別当(監督官)に迎えたいとの申し出。

既に当代随一の知識人として高名をはせていた空海。唐で土木工事なども見聞して帰国。讃岐出身の高僧である空海が別当となれば、人も資金(寄附)も集まるとの目算でした。

朝廷は願い出を認め、太政官符を発して空海を讃岐に派遣。修築のために国費も用意しました。

空海は約三ヶ月で満濃池を見事に修築。満濃池は現在も使われています。

東寺(とうじ)

八二三年、空海五十歳の折、嵯峨天皇が京都の東寺(教王護国寺)を真言密教の根本道場として空海に下賜。

嵯峨天皇はその直後に退位。淳和(じゅんな)天皇が即位しました。

東寺は平安京を護るために、遷都の二年後(七九六年)、南大門(羅城門)近くで建立が始まった官寺。桓武天皇が発願し、平城・嵯峨・淳和天皇時代の三十年を経ても、伽藍は未完成。

八二四年、空海は造東寺別当に任命され、伽藍完成に腐心しました。
修行場の高野山、都の拠点である東寺を得て、空海はますます宗教活動と社会貢献に邁進します。

綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)

八二八年、藤原三守(ふじわらみもり)という貴族が、東寺に隣接する私邸と敷地を、空海がかねてから構想していた庶民の学校に使ってほしいと申し出。空海は喜び、さっそく綜芸種智院を開学。空海五十五歳の時です。

綜芸種智院は誰でも自由に学べる日本初の庶民の学校。教育の機会均等、学問の自由、総合教育、完全給費制を導入。今日でも通用する先進的な学校教育を行いました。

十住心論と秘蔵宝鑰

八三〇年、淳和天皇が仏教各宗派に対して、それぞれの教義をまとめて提出することを命じました。

空海は十住心論(じゅうじゅうしんろん)十巻と秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)三巻を上進。五十七歳の時です。

空海の著作の内容に朝廷は感服。これを機に、奈良仏教に対する平安仏教の立場が確立。仏教は新しい時代に入りました。

八三一年、円澄(えんちょう)以下三十数名の最澄の高弟が、密教を学ぶことを望んでいた師の遺志を継ぎ、空海に師事。最澄入滅後、十年を経た出来事です。

入定(にゅうじょう)

八三二年、山奥のために難航した伽藍建設も一段落。空海は初めて高野山で法要を行います。一万の燈明と供花(くげ)を捧げ、人々の安寧を願う万燈会(まんどうえ)です。

十一月、空海は高野山での隠棲生活に入ります。五十九歳の時です。

八三五年、隠棲以来、滅多に下山しない空海が宮中での御修会(みしゅえ)に参会して国家安穏を祈願。最後の都入りでした。

高野山に戻った空海。終(つい)の棲家として、奥の院参道入り口「一の橋」から約二キロメートルの御廟(ごびょう)を自ら選びました。

三月二十一日、「五十六億七千万年後、弥勒菩薩とともに人々を救済するためにこの世に現れる」と遺告(ゆいごう)を残し、結跏趺坐(けっかふざ)して大日如来の定印(じょういん)を結んで入定。六十二歳でした。

諡号(しごう)

来月は最澄と空海の諡号(大師号)についてです。乞ご期待。