【第130号】最澄と空海の時代4(最澄と空海の入唐)

皆さん、こんにちは。春本番、初夏が薫る季節になりました。最澄と空海の時代をお伝えしている今年のかわら版。今月のテーマは最澄と空海の入唐についてです。

還学生と留学生

八〇三年、奇しくも同じ遣唐使船団に乗船した最澄と空海。

最澄は還学生(げんがくしょう=短期間で帰国する国費留学生)、空海は留学生(るがくしょう=二十年間帰国禁止の私費留学生)です。

ところが、遣唐使船団は瀬戸内海であえなく難破。最澄は九州に渡って次船を待ちます。

最澄は船を待つ間も唐や天竺(インド)の仏教知識を研究。滞在した香春社(かわらしゃ)などで布教活動も行います。

翌八〇四年、再編成された遣唐使船四隻が到着。最澄は第二船に乗船。第一船には空海が乗っていました。時に最澄三十八歳、空海三十一歳。

最澄と空海はお互いに面識がなく、立場も異なり、航海中に交流することはなかったようです。

いよいよ肥前国田浦(現在の長崎県平戸市)から出航。しかし、再び嵐に遭って二隻が沈没。残った二隻が最澄と空海の乗った二隻です。

どちらかでも沈没して亡くなっていれば、その後の日本の仏教や思想史は大きく変わっていたことでしょう。

円密禅戒

最澄の乗った第二船は明州に漂着。 最澄はさっそく活動を開始し、まず道邃(どうつい)に師事して天台教義と大乗戒律を修得。

次に天台山に上り、行満(ぎょうまん)から天台教学を学びます。

道邃と行満は天台宗を再興した湛然(たんねん)の弟子であったため、最澄は天台宗の正統を継承。

さらに、越州竜興寺で順暁(じゅんぎょう)から密教を、禅林寺の修然(しゅくねん)から禅を学びます。

天台宗、密教、禅、戒律を学んだ最澄。仏教の全てという意味で円密禅戒(えんみつぜんかい)を受け継ぎ、わずか八か月半で帰国します。

日本三筆

一方、空海の第一船は海路をはずれて予定より南の福建省に漂着。現地の役人閻済美(えんさいび)に海賊と疑われ、一行は上陸を許されません

途方に暮れた遣唐使の藤原葛野麻呂(ふじわらかどのまろ)に代わり、空海が閻済美と筆談。

ここで空海の漢学・漢詩の素養や後に日本三筆と讃えられる達筆が力を発揮。空海の文章に圧倒された閻済美は礼を尽くして一行の上陸を許します。

奇遇にも日本三筆のもうひとり、橘逸勢(たちばなはやなり)も一行の一員。因みに最後のひとりは嵯峨天皇。橘逸勢も嵯峨天皇も、のちに空海の人生に大きく関わります。

青龍寺の恵果和尚

空海一行は、中国大陸二千四百キロメートル、五十日間の南船北馬の旅の末、十二月二十三日に長安に到着。

翌八〇五年五月、密教の正統を継ぐ青龍寺の恵果(けいか)和尚との面会がようやくかないます。驚いたことに恵果和尚は「おまえが来るのを待っていた」と言ったそうです。

恵果和尚は七人の高弟や千人を超える弟子を飛び越して空海に密教の奥義を伝授。

八月、空海は結縁灌頂(けちえんかんじょう)を受け伝法阿闍梨遍照金剛(でんぽうあじゃりへんじょうこんごう)となりました。

恵果和尚は空海のために曼荼羅、独鈷(どっこ)などの密教法具や奥義の全てを授け終わると、十二月十五日に入寂。

空海の長安到着からちょうど一年。わずか数か月の運命的な出会いです。空海と恵果和尚のこの接点がなければ、日本仏教の姿は大きく変わったことでしょう。

帰国後の最澄と空海

帰国後の最澄と空海。いよいよ交流が始まります。来月は帰国後の最澄と空海。乞ご期待。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です